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第二十話


 

「響子、私――」 「ま、待ってっ!」

 深夜二十四時。穂含月神社の境内前。  三日月の薄明かりに、満天の星空。澄んだ空気と、深夜の涼やかな風。そして、それに優しく揺られる木々の音。  やっと見つけた織姫様に、意を決して想いを伝えようとした瞬間。  響子の張り詰めた声に私の言葉は遮られる。

「ごめんね凛ちゃん。覚悟はできてたはずなんだけど、いざとなったら足震えちゃって……。あはは……」

 今日一日かけて響子のために固めた決意は、他ならぬ響子によって水を差されてしまう恰好となった。  とはいえ、今なら確信を持てる。響子の恐怖の源が何なのかに。  それは、私を失うこと。  前の私なら、「そんなの自惚れだ」と言って、自分の自意識を鼻で笑い飛ばしたかもしれない。  でも、そうじゃない。  私たちの気持ちは、今やっと本当の意味で一つになれているんだ。  私だって、今日一日ずっと同じ気持ちだったから。  響子と離れ離れになるのが怖くて。それでも成し遂げたいことがあって。

「いいよ。時間はたっぷりあるし。私、待つから。響子の心の準備ができるまで」 「……いいの?」 「今更遠慮するような仲じゃないでしょ。私たち」

 呆れを含んだ笑い顔を向けると、響子も同じように笑みを返してくれる。  一緒に笑って、一緒に泣いて。  同じ時間を過ごしてきた私たちだから――。

「座らない? お賽銭箱の前の、階段のところ。あ、小山さんに怒られちゃうかな……」

 周囲を気にする素振りを見せる私に、響子が答える。

「それなら大丈夫。お昼にね、小山さんと話してたの。大きな物音さえ立てなければ、ここ自由にしていいって言ってくれたから」 「そっか。それじゃ、ありがたくここでお喋りさせてもらおうか」

 境内に続く数段の木の段差に腰掛けて、私たちはふぅと息をつく。  今日一日の緊張が、ほんの少しだけほぐれたような気持ちになる。

「なんかここ、良い眺めじゃない?」 「えっ?」 「ほら。鳥居までの道、真っ直ぐに見える」 「そうだね。広場全部見通せちゃうね」

 普通の人が見たら、きっと何てことのない景色なんだと思う。  だけど、この一ヶ月を一緒に過ごした私たちにとっては違う。  この道と広場は、ある時は子供たちの遊び場だった。  またある時は、私たちの出会いの場所だった。  そして――私たちが初めて一緒に歌って、踊った広場でもあるんだから。

「今日は静かだね……」 「うん。この間の祭りのときは、人もいっぱい来てたしね」

 しばし思い出に浸っていたのは、響子も同じだったみたいだ。  こんな些細な――でも世界にたった一つの認識を共有できるのは、今私の隣にいる、この女の子だけ。  少しの間、会話をすることもなく、私たちは広場と鳥居を眺め続けた。  これまで積み重ねた時間を、静寂の中で振り返る心地良さ。  二人一緒に、それに身を委ねていたかったから。

「ところで響子、今日一日何してたの?」 「今日は、ずっとここにいさせてもらったの。小山さんが中に入れてくれて、色々話してるうちに夜になって……。凛ちゃんと話さなきゃいけないことがあるんですって言ったらね、この敷地を使ってもいいよって」

 やっぱり学校にはいなかったのか。  道理で全然姿を見かけなかったわけだ。

「凛ちゃんは?」 「私は一日学校にいたよ。おにぎりとお味噌汁、ごちそうさま」 「えへへ。お粗末様でした。でも、それこそ今更だよ」 「そんなことない。……恥ずかしい話だけどさ、お昼に響子のおにぎり食べたら、なんだか泣けてきちゃって」 「もしかして、痛んじゃってたりしたっ!? 気温も高いし、冷蔵庫に入れておいた方が……」 「違う違う。色んな事、思い出しちゃったんだよ。楽しかったことも、大変だったことも。それに、今のこの状況も合わさってね」

 自分でもはっきりわかる。私、こんなヤツじゃなかったって。  一日しっかり自分に向き合って、覚悟を決めてくるだけで、こんなにも自分の心に素直になれる。  これまでの私とは明らかに違う、別の私の自然体。  やっと私は『響子の自慢の凛ちゃん』を、自分自身でも認識できるようになったんだ。

「一回感情を出し切ったら、随分気持ちが楽になったんだ。それからちゃんと考えて、今こうしてここにいられてる」 「そっか。私も嬉しいな。今の凛ちゃんが、少しでも前に進むための助けになれたなら」 「うん。響子の――おりひめさんのおかげだよ」

 いたずらっぽく微笑むと、響子も苦笑いを浮かべながら小さな声で「やっぱり」と呟いた。

「数時間ぶりだね。アルタイルさん。そっちも奈緒ちゃんから招待LINK貰ったの?」 「間違って送信してきたみたいだけどね。結局なぁなぁで、私も始めることになってさ……でも、意外と面白くなかった? あのゲーム」 「結構長い時間やっちゃったよね。最初は『こんなときに……』って思ったけど」 「まぁ、いい気分転換にはなったよ」 「私たち、へたっぴだったね」 「……ちょっと、練習しようかな。せっかく自分の曲入ってることだし」 「楓さんの曲も?」

 一瞬その場の時間が、ぴたりと止まった気がした。  けれどすぐに、優しい夜風が穂含月神社と私たちを包み込む。

「ふふっ。響子、また焼きもち?」 「だ、だってっ!」 「否定はしないんだ」 「ううっ……」 「まぁ、私も否定はしないよ。『evergreen』、すごくいい曲だった」 「……やっぱり凛ちゃんはすごいね」 「ん? 何が?」 「あんなすごい歌を歌える人の背中を追いかけてるんだもん」 「響子、それ楓さんしか褒めてない」 「そういうつもりじゃ……。もう、凛ちゃんの意地悪!」

 漫画みたいな拗ね方されちゃったよ。  こういうの、Sっ気そそられるって言うのかも。  ……ちょっといじめすぎたかな?

「響子は初めてだった? 楓さんの曲聴くの」 「うん。ちゃんと聴いたのは今日が初めて。これまではぼんやりと、素敵な曲を歌う人だなーって思ってた。けど……」 「私も今日、初めてちゃんとわかった。あの人が歌に、何を込めてきたのか。ファンの人たちに、何を伝えようとしてくれていたのか」 「大人って、すごいね……」 「きっと今日見えたのも、本当に楓さんの一部でしかないんだろうな……」

 再び、しばしの静寂。  以前であれば、側にいる相手に気を遣わせてしまうばかりだったはずの沈黙。  だけど響子と二人きりのときは、それが何よりも心安らぐ時間だった。

「でも、嬉しかった」

 ぽつりと、でも確かに私の耳に聞こえる言葉。

「凛ちゃんが、この場所をわかってくれたこと」

 はにかんだ笑顔を浮かべる響子。

「今日、カメラを見返したんだよ。私の撮った分も、響子の撮ってくれた分も」 「写真? あっ……」 「そう。ここの写真もあったから。それで思い出したんだ。ここで今日が、初めて私を名前で呼んでくれたこと」

 隣に置かれている、響子の左手。  固く握り締められたそれの上に、そっと自分の右手を重ねる。  触れた左手は、ほんの少しだけぴくりとしたけれど、私の手を受け入れるかのように、ゆっくりと手を開き――そしてその指を、私の指にしっかりと絡ませてくれるのだった。

「やっぱり、ここが全ての始まりだったんだ。私が本気になったのも、響子が本気になってくれたのも。そして私たちが、友達になることが出来たのも。全部この場所と、あの伝承のおかげ」 「うん……。私あの日から、アイドルに対して本気になれた。凛ちゃんの隣にいて、恥ずかしくないように頑張ろうって。私なんかがって思ってたけど、とにかく出来る限りやってみようって」 「響子だけじゃない。私だってそうだよ。最初は……居心地のいい自分の部署の方が楽だと思った。でも、ここで出来ることをしっかりやろうって。自分に足りないもの、たくさん思い知らされたから」

 あれからだったな。ここ月海での日々に、鮮やかな色がついていったのは。  だんだん五十嵐響子って女の子のことがわかってきて。今までの自分の視野の狭さも理解できるようになって。

「そうだ。響子は何か、やりたいことない?」 「やりたいこと?」 「うん。私とやりたいこと。何でもいいよ……って言っても、今の時間から出来ることなんて、そんなにないかもしれないけど」

 自分の言い出したことなのに、苦笑交じりになってしまう。  けど、それは私の本心だった。  さっき言った通り、時間はたっぷりある。  一晩かけて、私の気持ちをちゃんと響子に伝えたい。  そのために必要なのは、響子にリラックスしてもらうこと。  そして私にちゃんと向き合う、最後の勇気を振り絞ってもらうことなのだから。

「えっとね。私、凛ちゃんと同じものが見たいな」 「ふふっ。何週間か前と何も変わってないよ、それ」 「えへへっ。言われてみればそうだね。でも、あの時も今もそれは変わってないんだと思う」 「かもね。じゃあ、何を一緒に見たい? 私も見たいよ。響子と同じもの」 「部署に戻って、みんなに話せるような思い出がいいな。星空組のみんなに……。そうだっ!」

 これしかないとばかりに、響子はすくっと立ち上がった。

「凛ちゃん、私思いついた。凛ちゃんと一緒に見たいもの」 「うん。何でもどうぞ。私の織姫様」 「星……。星を見に行こう、凛ちゃん!」

 明りもない道を、響子に手を引かれて歩く。  私たちは今、穂含月神社から月海天文台公園へと向かっている。  響子は随分ご機嫌そうに私の手を引いて、アスファルトをどんどん先へと進んでいく。

「振り返ってみると、じっくり夜空を見上げたのなんて、最初の数日くらいだったかも」

 しみじみとしている響子に、

「確かに。二人で星見るのも、随分久しぶりって感じがするよ」

 と、私も同意する。

「特に最近は、色んな人が私たちの周りにいたし……」

「なかなか取れなかったよね。二人の時間」

 響子の言う通りなのかもしれない。

 そう。これでいいんだ。ここ数日の私たちに、一番足りていなかったものって、きっとこういう何気ない会話と時間を、二人きりで積み重ねることだったんだろうし。

「まぁ、いいんじゃないかな。初志貫徹ってことでさ」

「凛ちゃんらしいね。初志貫徹」 「……と言っては見たものの、私結構フラフラしてる方かも」

 出てきた言葉と自分の持っている自身のイメージとのギャップに驚き、一人で勝手に戸惑ってしまう。

「そうなの?」 「自分ではそう思うよ」 「私からは、ずっと一つのものを見据えてるように見えるんだけどなぁ」

 そんな風に見られていたことも、なんとなくわかる。  だって写真の中の『凛ちゃん』は、そういう顔をしていることが多かったから。

「そりゃ、楓さんのことなんかはそうなのかもしれないけど。そこに行くまでにフラフラしてるっていうかさ」 「あぁ……」 「納得した?」 「そうだね。凛ちゃん、たくさん悩むもんね」 「そういうこと」

 こうやって一つ一つ、わかりあっていけばいい。  ここに来て今更? ううん、そんなことない。  今からだって私たちは、もっともっとわかりあうことが出来るはず。  自分の心を形作る、複雑に絡み合ったたくさんの糸。  それを少しずつ解きながら、相手の見やすい場所に一本一本置いていくイメージだ。  自分で自分を理解すること。そして相手に正しく伝えること。  偽れない生身の自分を自分で見つめようとして、その情けなさに思わず目を背けたくなる時もある。  そんな自分を他人に晒すのは、もっと怖いことだ。  だけどその恐怖を、一つずつ乗り越えていくことで。  人は自分を、理解できるんだ。そして人は人に、理解してもらえるようになるんだ。

「私は……。思い込みが強かったり、落ち着きがなかったりしちゃうから……」 「感受性は大分豊かだよね。でも、周りのことはよく見えてるでしょ? それこそ私なんかよりも、ずっとね」 「どうなんだろう。自分に見える世界って、それが当たり前というか、普通に思えちゃうんじゃないかな?」 「私はこの一ヶ月で思い知ったよ。私に見えてる世界、大分他の人と違うんだなって。響子もそうだけど、奈緒やかな子とも全然違ったと思うよ」

 それこそ響子と同じように、私は私が当たり前だと思ってたんだけどな。  というか、今まで他の人がどんな風に世界を見ているかとか、考えたこともなかった。  少なくともモノの感じ方については、自分のことをわりと普通だと思ってたから。

「あはは……。それは知っておいてよかったかもね。でも、工藤さんとか高森さんだって、凛ちゃんとは違うんじゃないかな?」 「忍と藍子のことは……。あの二人の方が変わってるんだろうなって思ってたんだよ」

 一番変わっていたのは、下手したら私自身だったというオチだ。  今思えばあの二人の方が、よっぽど早く響子たちプレイアデスのメンバーと打ち解けるスピードが速かったような気がするし。  私はそれまでに響子と色々積み上げて、やっとああやって仲良くなれたっていうのに。  ……参ったなぁ。あんなに熱血な子より、あんなにゆるふわな子より、私の方が特殊なモノの見方をしているかもしれないだなんて、考えたこともなかった。

「私、部署に戻ったら他の子たちから、どんな風に見えるんだろう」

 周りから自分がどんな風に見られるか。  そんなことを意識するのも、思えば初めてのことかもしれない。 

「きっと変わったって言われるよ。というかもう既に、私も凛ちゃんも奈緒に言われちゃったような」

 響子の言う通りだ。そもそもこんなことを考えるようになったことが、前と変わった一番の証じゃないか。

「そうだね。そうじゃないとここで頑張ってきた意味もなくなっちゃうし」

 なだらかな坂を上り、やや開けた場所に出る。  どうやら無事、月海天文台公園に到着したようだ。  坂を上ってきただけあって、小高い丘の上にある公園なんだけど、昼間だったらここでピクニックをやるのも悪くなさそうだ。  ちょうどおあつらえ向きの芝生も、広がっていることだしね。

「凛ちゃん、あっち見て!」

 響子が指差す先を見ると、遠くに見える月海の海に、月の光が反射して美しく浮かび上がっている。

「今日は三日月か。月がきれいだね」 「えっ!?」 「ん、どうかした?」 「あの、今何て……?」 「今日は三日月か、って」 「違うよ! そのあと!」 「……? 月がきれいって言ったけど」

 きょとんとしているであろう私を後目に、響子はなぜか不自然なほどにどぎまぎしている。

「知らないの?」 「何を?」 「そっか……。ちょっと残念」

 響子が私の手を握り締める力が、少しだけ強まったのを感じる。

 よし、ここでなら上手く話せるかもしれない。

「ねぇ、響子。そこの芝生に寝転がってみない?」 「芝生に?」 「うん。そうすればさ、きっととてもよく見える」

 先に芝生に横になると――ほら、やっぱり。

「髪、汚れない?」 「別にいいよ。後で響子が払ってくれれば。それより響子も」 「う、うん」

 おっかなびっくり、そっと芝生に横たわる響子。  そして。

「……すごい」 「プラネタリウムみたいだよ」 「空一面、だもんね」

 見渡す限りの、星の世界。  この空に見える全てが、私たち二人のためにあるかのようだった。  隣に横たわる響子の左手を再び握り直す。  大丈夫。もう離れないよ。

「響子。あそこ見て」 「どこ?」 「空の高い所。真上。あれがベガ――織姫星」

 夜空に一際強く光り輝く星を指差す。  天の川に挟まれた二つの星のうちの一つ。

「天の川の上にある星だよね? 凛ちゃんも星のこと、詳しいんだね」 「この間皆口さんに教わったんだよ。一週間くらい前、食甚祭終わった後に」 「えっと……それって、いつのこと?」 「藍子の誕生日会のとき」 「あぁ、あの時!」 「そうそう。『少しは星のことも知っておきなさい』って言われてね」 「そうだったんだ。じゃあ今度は私の番。デネブはどこにあるでしょう?」

 む。逆に問題を出してくるのか。さすが星空組のアイドル……。

「川を挟んだ逆側にあるよ。今度はあそこ」

 ベガの時と同じように、今度はデネブを指差してみせる。

「正解。ちゃんと覚えてるんだね」 「響子こそ。意外と知ってるんだ」 「うちは部署が部署だし……星が好きな子がいるから、色々教えてくれたりもするんだ」 「へぇ……。そんなアイドルがいるんだ」 「すごく綺麗な子だよ。凛ちゃんにも負けないくらいに」

 大所帯の部署だしね、星空組は。346のアイドルをすべて把握できているわけじゃないし、一体誰のことなのか……。

「最後の一つも確認しようか。ほら、あそこにアルタイル」

 再び空を指差す私。  しかしその星の名前を出したことで、二人の間を沈黙が包む。  響子もわかってるんだ。この先の話を、しなければならないってこと。

「……そろそろ、聞いてくれる? 私が決めてきたこと」 「うん」

 星空と天の川を見上げたまま、私は言った。

「残ることにした。月海に」

 響子の返事はない。星を見上げたまま、さらに言葉を続ける。

「『evergreen』聴いて、思ったんだ。楓さんはいなくなったりしないって。あの人も今の私と同じように――あの人の立ち位置を守ろうとしているってわかったから」  「……本当に、いいの?」 「うん。正直言って、強くなった自分を見てもらいたいって気持ちは今もある。今の私が楓さんと同じステージに立って、どれだけやれるのか……」

 一度言葉が止まる。  今の響子には、私の思っていることすべてを、そのままに伝えたい。  たった一つの隠し事だって、したくないんだ。

「それでも、346に戻らないの?」 「うん」 「どうして?」 「もしも今、月海を後にしてしまったら――これから先もう二度と、響子と一緒に何かをやれることはなくなっちゃうだろうなって思ったから」

 自分でも不思議な結論だった。  楓さんは、あんなにも遠くにいるように感じてしまうのに。  落ち着いてゆっくり考えてみると、たとえ今回のチャンスを逃してしまったとしても、楓さんという存在が私という存在から完全に切り離されてしまうことは、絶対にないと確信できた。  私たちを繋いでくれる、巡り合わせ。今回のことが最初で最後だなんてありえない。  いつかまた何かに導かれるように、彼女と正面から向き合える日が来るに決まってる。

 じゃあ、今私と響子を繋いでいてくれるものって、何だろう?  多分……私と彼女の間を繋ぐものは、この一ヶ月をやりきることで、初めて得ることができるんだ。  当たり前のように感じる今この瞬間の方が、実はとても尊い――裏を返せば、酷く脆くて儚い奇跡の上に成り立っているんじゃないか?  だから――。

「私、まずは今を大事にしたい。今を大事にして、その上で未来を見つめたい」 「今? 未来って?」 「それは『今を楽しむこと』を言い訳にするのとは違う。自分が楽をしたり、何も考えなくていい方向に逃げたり流されたりするって意味じゃなくて」 「え、えっと……?」

 少し哲学的過ぎたかな。  響子を困らせてしまったかもしれない。  伝えなきゃ。ちゃんと、伝わるような形で。 

「今この瞬間の自分の行動に、ちゃんと自分で責任を持つってこと。その積み重ねが、もっと大きくて輝いてる未来に辿り着くための、一番の近道だと思うから」 「……はぁ。凛ちゃん、本当にすごいよ」 「そ、そうかな? 私、変な事言ってない? というか、自分でも言ってると思うんだけど……」 「ううん。そんなことない。私はそこまで考えられなかったもの」 「まぁ、私は考えなくちゃいけなかったから、そうしただけだけど」

 どうやら上手く伝えられたみたいだ。  でも、これ以上買い被られてしまうのもそれはそれで参るな……。  ただ、今回の決断はこれでいい。  結局楓さんの存在に背中を押してもらった形になってしまったけれど。  自分の全てを自分ひとりの考え方だけで決めることの方が、よっぽど『今流れているこの世界全て』に対して、無責任で不誠実な気がしたから。  やっぱりいいんだ。これで。

「だからね、響子」 「うん」

 左半身だけを起こして、隣に寝そべっている響子を見つめて――私は生まれて初めての告白をした。

「こんな彦星で良ければだけど。私の織姫になってください。あと十日間……そして、もしも叶うなら来年も」 「来年……!」

 ぽつりと呟いた響子。口元に右手をあてながら、見る見るうちに彼女は涙ぐんでいく。

「仕事じゃなくたって構わない。来年の誕生日も、もう一度会おう。そして一緒に、誕生日を祝おうよ。私たち……たとえアイドルじゃなくなったって、もう友達なんだから」 「――っ!!」

 胸のあたりに、ぼふんと固いものがぶつかる。  それが響子の額だと気づいた直後、彼女が大声を上げて泣き出してしまったことにも気づかされる。  いつの間にか背中にも手を回され、きつくきつく抱き締められていることにも。  ひたすらに、私の名前を呼び続けていることにも。  そしてとうとう私の頬にも、一筋の涙が伝ったことにも。  響子の頭をゆっくりと、優しく、何度も撫でる。  それくらいしか、今の私にできることなんてなかったから。

 涙でぼやけてしまった視界で、再び月海の空を見上げる。  空の先にある、大きな宇宙。広がっているはずの、星の世界。  大きな川に阻まれて、一年に一度しか逢うことのできない、織姫様と彦星様。  私は一生、忘れない。そしていつか、思い出す。  この夏の日の天の川と、夏の大三角の煌めきを。  少しツンとした鼻をくすぐる、優しい潮の香りを。

 指と指の間を心地良くすり抜けていく、細くて柔らかい髪の毛の感触を。  身体を通して直に伝わる、大きな大きな泣き声を。 

 それから数時間、私と響子の取り留めのないお喋りは続いた。  これまで心のどこかで遠ざけていた、剥き出しの女の子としてのお互いに触れ合う時間を、取り戻そうとしていたんだ。  話し疲れてしまったのか、響子は先に眠りに落ちてしまった。  初めて見る響子の寝顔。  あぁ、これが隠れていた最後のあなた。  何にも覆われていない、五十嵐響子そのものなんだね。  永遠にも感じられる時間。今この瞬間の一秒一秒がたまらなく愛おしい。  夜の闇は少しずつ溶けていき、月海の空と雲は、淡く儚い若紫へと色を変えた頃。

「起きよう、響子」 「う、ううん……おはよう」 「おはよう」

 きっと今起きれば――夜の星空にも負けないくらい、美しい景色が見られるはずだから。

「ほら、立って。織姫も彦星も、朝になったらもう見えない。でも、今もそこで確かに輝いてる。それに――」

 響子に手を貸して、すくっと立ち上がらせる。  迷いや弱さが消え去った表情。にこりと微笑めば、彼女もまた同じように微笑み返してくれる。  朝露滴る草の匂いが、辺りを包んでいる。  たおやかな緑たちは、私たちに訪れた新しい一日のはじまりを、みんなで祝福してくれているかのようだった。

 evergreen with you.

 楓さんの歌詞とメロディを思い出す。  永遠の緑はいつもそこにある。  明けない夜なんて、あるはずない。世界は夜を超えていく。  そして。

「うわぁっ!! すごいっ!!」

 響子の大きな声。もう、さっきまでの泣き声とは違う。  だって今のは……この世界の優しさと向き合えた証。  この夏で一番大きな、喜びの声だったのだから。

 海の向こうから昇ってくる太陽。  遥か海原の先にある地平線から、ゆっくりと顔を出してくるそれは、この世界の全てを力強く照らそうとしていた。  眩しい朝の日差し。海に反射する光。波が起こす不思議な揺らめきが、星屑に勝るとも劣らないきらめきを放つ。

「朝だね、凛ちゃん」 「うん、朝だ」 「私ね。ずっと、囚われてたのかも」 「何に?」 「食甚祭の――あの日の夜に」 「どういうこと?」 「だって、楽しすぎたから。色々あったけど凛ちゃんと同じステージに立てて、やり切れて。あれ以上に楽しいことなんてあるはずないって、心のどこかで決めつけていたのかも」

 だから、前を見ることができなかった。  直接そうは言わなかったけど、きっとそういうことなんだと思う。  私だってそうだった……というか、私たちは多分――。

「お別れに、向き合いたくなかったのかもね」

 自分に対して、確かめるようにそう呟くと、

「……そうだね。そうかもしれない」

 と、響子も横で小さく頷く。  私たちの八月は、あと十日もすれば終わってしまう。  その現実と向き合いたくなくて、お互い『今』から逃げるようなことばかりして。  私の迷いも、響子の頑張りも、全てそこから目を逸らすための逃避に過ぎなかったんだ。

「本当に綺麗だね。この町」 「うん。正直最初は、別に来たくもなかったんだけど」 「そ、そうだったの?」 「ほら、私東京生まれの東京育ちだし。あと、別に都会に疲れたりもしてないし。むしろ雑踏に紛れられる方が落ち着くっていうか」 「うわぁ……」

 引くところかな、ここ。  普通に便利な方がいいと思うんだけどな、私は。

「響子は鳥取だったっけ? どんなところ?」 「ふーん、どーせ砂丘しかないところですよー」 「別に、そういうつもりじゃ……」 「じゃあ砂丘以外に何があるか知ってるのっ?」 「…………」 「やっぱり何も知らないんだ」

 そうは言われてもな。やっぱり知らないよ。砂丘以外。

「まぁ、でも。悪くなかったよ。ここも」 「ほんとうにー?」 「色々と勉強になったっていうのかな? 大変なことも多かったけど……。なんていうか、優しくて綺麗な場所だよ。ここは」 「そういうの、何て言うんだっけ。あっ。思い出した! 抽象的って言うんだ!」 「……漠然としてて悪かったね」

 誰もが憧れるような、華やかな都会。  だけど人がたくさん集まってくる分、そこでは誰もが雑踏の中に紛れてしまう。  その人ならではの色。その人ならではの味。  みんながみんな、周りに合わせて、おかしくないように、丸まって丸まって生きている。調和の取れた、落ち着いた場所と言ってもいい。  でも時にはそんな窮屈さを、忘れてしまってもいいのかもしれない。  月海は私に、それを教えてくれたんだ。  ま、都会に帰るけどね。来年の約束も出来たし。年に一回来られれば十分満足だよ、私は。

「さて、合宿所に戻ろう。シャワー浴びて、今日は一日ゆっくりしよう。皆口さんも帰ってくるだろうし」 「そうだね。朝ごはん作って、食べて、お昼頃まで一眠りしちゃおっか」 「十日のライブも夜だから、多少昼夜逆転したって大丈夫だろうしね」

 手を繋いだまま、私たちは公園を後にする。  芝生のある広場から坂を下るとき、もう一度だけ振り向いて。  二人で小さく、こう呟いた。

『またね』

 来年も必ず、またここで。  私たち二人だけの誓いを立てて――

「あっ、あの車!」

 合宿所に戻ってくると、昇降口に小さな車が止まっていた。  三日ぶりに見た、お洒落で小さな外車。  ちょうどエンジンを止めるところだったようで、すぐにドアが開いて中から人が降りてくる。

「あら、二人とも。こんな朝早くから出かけてたの?」 「み……みなぐちさぁ~~~ん!」 「うわっとと! 朝からいきなり何なのよもう!」

 皆口さんに駆け寄る響子の様子は、まるで感動の再会シーンそのものだ。  少し離れた場所から、苦笑いしながらその光景を見守る。  やれやれ、仕方ないな。元はと言えば私のせいだし、ちゃんとフォローはしてあげないとね。

「んもー。たった数日顔見せなかっただけじゃない。渋谷さん、どういうことか説明してもらっても――」

 困惑気味な皆口さんは、私の顔を見てハッとしたかと思うと、次の瞬間すぐにニヤリと口角と上げた。

「へぇ。吹っ切ったっていうの、嘘じゃなかったみたいね」 「えっ?」 「今の渋谷さん、すごくいい顔してるもの。具体的には、中村くんが大喜びしそうな顔ね」

 それ、本当に褒められてるのかな?  私としては喜んでいいのか、何とも言えないところではあるけど。  だけどまぁ何はともあれ、私はもう前に進むことしか考えていないから。

「十日、やれそうなの?」 「問題ないわ。こういう面倒なことは大人に任せてればいいって、前にも言ったでしょう? 『まだユニット名もない二人に~』とか、本社で散々あれこれ言われたけど、全部蹴散らしてやったわよ」 「ユニット名……。そういえば、まだつけられてない!」 「響子は何か、つけたい案ある?」

 完徹明けのぼんやりした思考で、どれだけのアイデアが思いつくかはわからない。  でも、私たちの気持ちが一つになった今なら……。

「凛ちゃん、今決めない?」 「私も同じこと思ってたよ。今考えて、今決めよう」 「ちょっとあなたたち、ホントどうしちゃったの? 急にすごい前向きっていうか、やる気に満ち満ちているっていうか」 「まぁ、そこは色々あったってことで」 「そういうことです!」

 今年だけじゃなく、来年へと私たちを繋いでくれるような名前がいい。  これまで歩いてきた道に、必ず答えはあるはずだから。  それを今ここで、思い出せばいいだけのことなはず。

「ねぇ、凛ちゃん。あれにしない?」 「あれ? ……あぁ!」

 響子が指差していたのは、昇降口に置かれたハイビスカスの苗たちだった。  今日も朝から大きくて鮮やかな赤と青の花を咲かせている。  これだ。確かに、これしかない。

「立派なハイビスカスじゃない。これ、いつの間にどこから持ってきたの?」 「まぁ、それも色々あったってことで」 「調べてみようよ、ハイビスカスのこと!」 「そうしてみようか」

 スマートフォンでブラウザを開き、『ハイビスカス』と文字を入力し検索。  すぐに検索結果が表示され、一番上に出てきたネットライブラリーを開く。

「そういえば、響子はこのこと知ってたっけ」 「何のこと?」 「ほら、ここ見て」

 ネットライブラリーの一節を指し示す。

「うそっ!? 凛ちゃんは最初から知ってたの!?」 「うん、まぁ……」 「私知らなかったよ! どうしてもっと早く教えてくれなかったの? ハイビスカスが、私たちの誕生花だって!」

 どうしてと言われても、響子も女の子だし、知ってるかと思ったんだよ。  花屋の娘だからって、わざわざ知識をひけらかすこともないかなと思っただけなんだけどな。

「他にもさ、ほら。ここ見てよ」 「これ? これがどうかしたの?」 「ちょっと、耳貸して」

 こそこそと耳打ちをすると、

「……うん! それ、とっても素敵なアイデアだと思う! やっぱり名前、これにしようよっ!」

 と、響子も私の"もう一つの考え"に賛成してくれる。

「ちょっと! 私にもわかるように話しなさいっ!」

 不満げな皆口さんの呼びかけに、

「決まったんだよ、ユニット名」 「もう、これしかないって感じです!」

 と、二人ぴったりの呼吸で返事をする。

「そんな簡単に決めちゃっていいの?」

 若干呆れた表情の皆口さんだったが、私たちにはもうひとつも迷うことなんてなかった。

「簡単になんて、決めてないですもん」 「うん。皆口さんがいない三日間で、これまでのこと全部考えた。その上で、これにしたいと思ってるから」

 私たちの顔つきを見て、何かを察してくれたのだろう。  やれやれと呟いてこそいるものの、皆口さんも心のどこかで少し安心したのかもしれない。

「そう。それじゃ早速聞かせてもらおうかしら。あなたたちの決めた、あなたたちだけのユニット名を」

 朝の日差しを身体いっぱいに浴びながら、私と響子は小さく頷き合う。  伝えよう。私たちが決めた、私たちだけのユニット名を。

「私たちの、名前は――」 「私たちの、名前は――」

 

第二十話 了

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