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第十八話


 

 二人で駆け抜けた、私たちの七月。  神様がやり残した、ただ一つのイベント。  月海と私たちの間に吹き荒れた、大きな夏の嵐。それを境に七月は、私たちの前から姿を消した。まるで今年の役目は、もう全て終わってしまったと言わんばかりに。  それから十二時間。気づけば太陽は空高く真上に登り。  私たちの――いや、今は私だけの――暑い暑い、八月一日がやってきた。

「……また今日も、しっかり寝られなかったな」

 ここ二日ほどの間に、私の体内時計はすっかり狂ってしまったようだ。

 夜中にクーラーをガンガンかけているのにも関わらず、部屋が冷えれば冷えるほど、私の思考も同じように冴えてしまうんだ。  結論を出すこともできない夜中の頭に嫌気が差して、寝苦しくなることがわかっていながらクーラーを消すと、今度はじっとりした暑さとどろどろした気持ちがやってくる。  一時間置きに微睡んだり目を覚ましたりを繰り返して、普段の倍の時間をかけて、やっといつもと同じだけの睡眠時間を確保できる。  せめて、横になっていなければ。  辛うじて残されたプロとしての意識がそうさせるものの、結局考えは何一つまとまることもなく。

 346の白雪姫と、346の織姫。  二人のプリンセスは私の選択を待ち続けるばかりだった。  みんなの白雪姫か、それとも私だけの織姫か。  白雪姫は私に、進むべき場所を示してくれた。  織姫は私に、守るべき場所を作ってくれた。  過去と今、そして未来。三つの時の狭間で押し潰されそうになっているのは、女神かはたまた彦星か。  自分が何者なのか、何者であるべきなのかすら、今の私にはわからなかった。  女神としての偶像。  彦星としての偶像。  どちらも私が、これまで真剣に、大切に育て上げてきたものだ。

「やっぱり無理だ、どっちかだなんて……」

 あぁ、喉が渇いたな。昨日の夜カップラーメンを食べたきり、水の一滴も飲んじゃいなかった。  家庭科室に行けば、買い貯めした何らかの食材は見つかるはず。  心も身体も絶不調だけど、とにかくまずは栄養を取らなくちゃ。  響子にこれ以上、心配かけるわけにはいかないから。  教室を出て、階段を降りて、家庭科室の扉を開ける。  テーブルの一角には、おにぎりが五つも用意されていた。  ゆかりに、鮭フレーク。それにシンプルな塩むすび。  どれもサランラップに包まれていて、触るとまだほんのり温かい。  きっと時間を見計らって、響子が作ってくれたんだ。  その横に置かれた小さな魔法瓶の中には、豆腐のお味噌汁が入っていた。

「どうして、ここまで……」

 昨日あんなに、言い争ったのに。  自分のことでいっぱいいっぱいな私とは違う。こんな時でも、響子は私を応援し続けてくれている。それも、自分の身を削ってまで――。

「いただきます、響子」

 じんわりと口の中に広がる、塩の味とご飯の甘み。はぐはぐと温かい白いご飯にかぶりつくと、響子の優しさが身体の内側へと染み渡っていくかのような気さえして。

「……っ」

 いつの間にか、頬を伝う涙。  ぐすぐすと鼻をすすりながら、溢れ続ける涙を拭うこともせず、私はおにぎりを食べ続けた。  ここに来てから、響子は色んな美味しい手料理を作ってくれた。一緒に作ったものもあれば、ほとんど響子が作ったものもある。  でも、今食べている何の変哲もないはずのおにぎりは、今まで食べたどの響子の手料理よりも、私の心を強く締め付けた。

「ごめん……ごめんね、響子ぉ……!」

 どうして私は、この温かさに応えられないのだろう。  どうして私は、この優しさに向き合えないのだろう。  どうして私は……。

「"応援する"なんて、簡単に言わないでよっ……!」

 謝ったかと思えば、また相手のせいにして。  行き場を失った激情は、一度刺激されたが最後、決壊したダムから溢れる水のように、再び心の中で荒れ狂った。  情緒不安定、って言うんだっけ。こういうの。  今ここに、誰もいなくてよかった。  こんなところ、誰にだって見せられない。  ファンの人にも、プロデューサーにも、お父さんとお母さんにも。  そして、楓さんにも。

 でも。  こんな私のことを知っている女の子が、世界にたった一人だけ存在する。  五十嵐響子。彼女が私を呼ぶときの声。

『凛ちゃん』

 響子の声で呼ばれるそれは、とても不思議な呼び名だった。  プロデューサーや忍の呼ぶ『凛』とも違う。もちろん両親のそれとも違う。  かといって楓さんや藍子のような『凛ちゃん』でもない。  きっと響子は他の誰も知らない私を、誰も知ることなく消えていくはずだった私を、救い上げてくれたんだと思う。  もう少しで消えてしまうはずだった、私の中の私。  自分の中にいる、自分ですら知らなかった、私の別の可能性。  楓さんですら見出せなかった、響子だけが見出してくれた、ただ一人の『凛ちゃん』。

「いいのかなぁっ……。こんな情けない私でも、いいのかなぁっ……!」

 一人だけの家庭科室に、虚しく響く私の嗚咽。  響子の真心を噛み締めることで、『凛』の気持ちが僅かながらに、織姫の側へと傾いていくのを、私は感じ取り始めていた。

 いつまでもうじうじしていられない。  こんな時でも、ここでの生活は全て私たち次第なのだから。  何でもいい。やれることを見つけて、やらないと。  そう考えた私は、ふと昇降口に避難させたハイビスカスのことを思い出した。  昨日の夜屋内へと持ち込んだはずの鉢植えたちは、既に太陽の降り注ぐ日なたへと持ち運ばれていて、今日も今日とて別の新しい花を、たくましく咲かせていたのだった。

「はぁ。ここも先を越されちゃったか」

 よく見ると、既に土まで植え替えられている。  この様子じゃ、私が唸って悩んで微睡んでいる間に、一通りのことは全て終わらせてしまったのかもしれない。

「参ったな、ほんとに」

 誰に伝えるでもないのに、口から垂れ流しにされる自分の気持ち。  ハイビスカスを眺めていると、今日初めて穏やかな気持ちになれた気がした。  真っ赤な花と、真っ青な花。それぞれは優しく寄り添い合うように、それでいて大きく力強く咲いていた。  うん、しばらくここにいさせてもらおう。ここならきっと、大丈夫。必要なことだけ考えられるか、あるいは何も考えないでいられるか。どちらでもいい。そうすることこそ、今の私にとって大事なことだから。

 日陰からハイビスカスを眺めながら、私はこれまでにデジカメで撮ってきた写真を見返していた。

 色鮮やかに切り取られた私と響子の一瞬一瞬を見ながら思い出す、今年の七月の出来事たち。  最初は……半ば無理矢理みたいなものだった。  夜の屋上、これまでに見たことのないような美しい天の川。  夜空いっぱいの星々を眺めているときに、あの子は――五十嵐響子は私の前にやってきた。

 始めの頃は、なんだかぎこちなくて。

 何をしても上手く行かず、お互いの距離感すらも測り切れず。  それがふとした瞬間に、お互い同じ気持ちを抱いていることに気付かされて。  そして、神社で聞いた巫女の伝承。  確かあの時だったかな。私の中で、何かのスイッチが入ったのは。  その日以来、私のがむしゃらさは少しだけ変わっていった。  目標一点のみを見据えて突き進むというよりは、常にすぐそばにいてくれる響子のことも、一緒に考えるようになった。  響子が歌えるようになれば。響子が踊れるようになれば。  それは私にとっても、大きな喜びとなったんだ。

 奈緒やかな子が来てくれてからは、もっともっと楽しくなった。  やっぱり最初は、どこか遠慮があったけれど。  これまで私が積み上げてきた、ニューカミングレースの渋谷凛という立ち位置。  それに対してあの子たちは、自分たちのやり方で、自分たちの思うように、私に接してくれたんだ。  かな子はかな子の、ありのままで。奈緒は……まぁあれもあれで、一種のありのままだったのかな。それにしては、テンパったり逆ギレしたりと、目まぐるしい様子だったけど。

 みんなで海に行って、一緒に仕事をして……というよりも遊んで。それからバーベキューもして。  ビーチバレーで、響子と奈緒を生き埋めの刑にしたりもしたっけ。  今ならわかる、ごめんね響子。  あぁ、生き埋めのことじゃないよ。それとこれとは話が別だから。  そうじゃなくて、私が奈緒と一緒にテントから出てきたときのこと。  あの時は可愛い焼きもちくらいに思ったけど、本当はずっとずっと、不安だったんだね。  私みたいな、一人で歩いてる人間の隣に立つことが。  やっと一緒に歩けたかと思ったら、身勝手なそのパートナーは、自分たちだけの世界ではない、別の世界へとふらふら歩いて行ってしまったように見えたのかもしれない。

 何もかもが順調だったはずなのに、食甚祭直前に起きてしまったトラブルのこと。  たった数日前のことなのに、なんだか随分前のことのような気さえする。  思い出すというほど、記憶の深くにある風景でもないはずなのにな。  この町の、東京とは違った時間の流れのようなものが、そう感じさせるのだろうか。  お互いに身体の一部を痛めてしまって、プロデューサーにも怒られて。  そういえばあの時、「変わった」って言われたっけ。  状況に対して、やるべきことを。

 取るべき行動を、躊躇いなく取れるヤツだったはずなのに。

 本当に、一度わかってしまえば簡単なことだった。  あれだけ響子が無茶したのも、いつか私が自分の側からいなくなってしまうことに怯えていたからなんだ。  そして食甚祭という大きなイベントを終えた今、実際に私は響子の側からいなくなろうとしている。  ははっ、何もかも響子の不安通りだ。  そりゃ怒るよ、あの響子でも。

「まぁ、それがわかったところで現状は何も変わっていないわけだけど」

 今のは全部、私から見えた世界の話に過ぎないんだ。  この一ヶ月間、きっと響子には響子の、私とは全く別の世界が見えていたはずで。  響子もそんなこと、考えたりしたのかな。  私の目に映るもの、あなたの眼に映るもの。  微かに吹いた風に揺れる、ハイビスカスの花。  ほんの少しだけ。ほんの少しだけだけど、それは私の背中を押してくれた気がした。

「考えないと。今の私のことも、響子とのこれからのことも」

 何はともあれ、一度教室に戻ろう。  飲み物も飲みたいし、ある程度心に整理のついた今なら、響子が側にいたとしても、昨日ほど心が乱れてしまうこともないはずだから。

 ゆっくりと教室のドアを開けたものの、そこには誰の姿もなかった。  やっぱり響子、気を遣ってくれてるんだろうな。この分じゃもしかしたら、今は学校の中にすらいないのかもしれない。  幸いなことにクーラーはつけたままだったので、タオルで軽く汗を拭くだけで、全身の気怠さが随分取れたような感覚になる。  服の裾から入る風は人工的なものだけれども、それでも今の私にとっては、この涼しさこそが一番の薬になってくれた。  教室の冷蔵庫から麦茶を取り出しコップに注いで、一口ずつゆっくり飲み干していく。

「はぁー……」

 身体中に冷たさが染み渡っていくかのようだ。  生き返るとはまさにこのことだね。  思えば響子から、色んな事を教えてもらったな。麦茶のティーパックの使い方とか、熱く語ってたっけ。

「えっ?」

 スカートのポケットの中から、微かなLINKの通知音。  もしかして、響子?  恐る恐るスマホを取り出し画面を覗くと……。

「あれ、奈緒?」

 届いていたメッセージは……、スマホゲームの登録申請?  あぁ、もしかして。  中学の時、学校の友達から聞いたことがある。LINKを通じて色んな人を勧誘することで、アイテムを貰えたりするとかなんとか。  奈緒もそれ目的なのかな。

<まちがえたー!!>

 こちらがメッセージに目を通した直後、奈緒から再びメッセージが飛んできた。  この様子だと、"それ目的"ではあったものの、送る相手を間違えたってとこかな。  慌ててる顔が目に浮かぶよ、まったく。

<これ、何?>

 どうせ手持ち無沙汰というのもあるけれど、響子以外の子と話すことで、少しは気分を変えられるかもしれない。  普段ならあまり興味を示さないようなゲームの話に、珍しく私は食いついたのだった。

<もしかして、興味あるのかっ!?>

 うわっ。こっちの食いつきの十倍くらいの勢いで返信が来た。  どうしよう。そこまで興味があるわけでもないんだけど……。  まぁいいか、奈緒だし。

<少しね。最近ひとつくらい、ゲーム始めようかなと思ってたから> <ほんとかっ! じゃあ凛も一緒にやろう、ポプステ!> <ポップンステーション?> <色んなアイドルの曲が入ってる音ゲー、このゲームのことだよ! 知らないと思うけど、ニューカミングレースの曲だってちゃんと入ってるんだからな!>

 あぁ、これってもしかして紗南がやってたやつかも。  なるほど、このゲームのことか。そして奈緒がこれを薦めてくるってことはつまり……。

<海で最初に会ったとき、奈緒がやってたゲーム?> <そうそう、あれだあれ! って、その話はもういいだろー!?> <わかったわかった。私もやるよ、ポップンステーション。で、どうすればいいの?> <そしたらさ、まずさっきのリンクから飛んで……>

 奈緒の指示通りに操作をすると、アプリをインストールする画面がすぐに出てきた。  インストールをタップして、と。  数十秒待った後に起動の文字をタップすると、きらびやかなタイトルコールが教室に鳴り響く。

<インストールが終わっても、ゲームデータのダウンロードにちょっと時間かかるんだ> <そうなの? あんまりこういうの、やったことなくて> <最初は十分くらいかかると思うぞ> <結構時間かかるんだ> <最近のスマホゲーはかなり容量大きめだからなー>

 何気ない会話も、LINKだとさらにテンポが上がる。  思えば、こんな風に響子と話したことあったかな。  いつもぎこちなかったり、近すぎたり、あるいは一気に遠ざかってしまったり。  ずっと、不安定な距離感だったのかもしれないな。私たち。  このLINKも……バレたらまた、嫉妬させちゃうかな。  奈緒は本当に不思議な子だと思う。人としての取っつきやすさがすごいっていうか。奈緒の夢じゃないけど、どこかで何か一つ運命が違ったら、本当に同じユニットで活動してたりしたのかもしれないな。

 ぼんやりとそんなことを考えている間に、どうやらダウンロードが終了したらしい。

<ダウンロード、終わったみたい>

 奈緒にLINKを飛ばすと、

<まずはチュートリアルからだな。ゲームの説明があるから、順々に進めていくんだ>

 と、丁寧な返事が来る。

<わかった、やってみる>

 奈緒とLINKでのやり取りを続けつつ、並行してゲームの方も進めていく。  なるほど。音に合わせて画面の上から降ってくるリズムアイコンをタップしたり長押ししたり、画面をこすったりすればいいのか。  基本的な操作説明が終わると、『プレイヤーネームを決定してください』という指示がゲーム内に表示される。  プレイヤーネーム? このゲームの中での、私の名前か。  どうしようかな……。昔は適当にハナコってつけてたんだけど。さすがに本名はないよね。奈緒はどうしてるんだろう。

<終わったよ。ひとつ聞きたいんだけど> <なんだなんだ!?> <プレイヤーネームってやつだけどさ。奈緒はどんな名前にしてるの?> <あたしか? あたしは『NAO』にしてるけど……>

 えぇっ!? いたよ、本名!  私が詳しくないだけかもしれないけど、こういうゲームって案外そういうものなのかな?  ……いやいや、やっぱりないな。変な名前にしたら恥ずかしいし、今更ハナコも恥ずかしいし、少しは真面目に考えよう。  アイオライトブルー、とか。ちょっと長いかな。それに名前っぽくもないし。  あと、カタカナよりか英語の方がかっこいいかもしれない。  あぁ、そうだ。せっかくだしあれにしよう。  今度はブラウザを開いてインターネットに接続すると、私はある単語のスペルを調べ始めた。

「あった。えっと……A、l、t……」

 名前を入力し終えると同時に、奈緒にもメッセージを送信する。

<名前つけた。ちょっと一人で練習してみるよ> <おう! わからないことがあったら、何でも聞いてくれよな!> <うん、ありがとう>

 それから三十分ほど、私は一人で何曲かの楽曲をプレイしてみた。  この間奈緒がやってた『さよならメモリーズ』もあったけど、どうやらこのゲーム中でも屈指の難曲らしく、初心者の私では手も足も出なかった。  一応歌ってるの、私なのにな……。  リズムは完璧に把握しているのに、まだ指の動きがついてきてくれない。  しばらく練習すれば、何とかなるかもしれないけど。  まぁいいか。とりあえずMASTERの簡単な曲なら叩けるようになってきたし、奈緒に一言入れてみよう。

<だんだん慣れてきたかな> <お、今どんな感じだ?> <MASTERの中で一番簡単な曲はクリアできたよ> <さすが、物覚えいいなー!> <まぁね> <よーし。それじゃ、早速みんなで協力プレイだ! 部屋作るからさ、凛も入ってこいよ!> <部屋って?> <最初の画面の右上に、アイコンがあるだろ? そこをタップして、今から送る部屋ナンバーを入力してくれよっ>

 指示通りにゲーム内の個別ルームに入ると、中には『NAO』の他に二人のプレイヤーがいた。

『どーもー』

 どうやらキャラクターの上に、小さな吹き出しが表示される方式らしい。クールな雰囲気のそのキャラクターは、どこか飄々とした挨拶をしてくれた。プレイヤーネームは……『とんぱち』さんっていうのか。  とんぱちって、どういう意味なんだろう。  というかこれ、どんな返事すればいいの?

<奈緒、これ何て返せば……> <あー、そうか。凛、こういうチャットはやったことないんだよな> <うん> <ここにいる二人、うちの部署のアイドルなんだ。年もそう変わらないし、凛だってことも知ってるから、ふつーに挨拶すればいいんだって!>

 そう言われてもな……。むしろ私だって知られてるからこそ、変な印象与えても困るというか。  346のアイドルとわかっているとはいえ、こっちだけ顔も思い浮かばない相手とこうしてやり取りするのはなんだかこそばゆい。  まぁ、仕方ない。とりあえずこれで。

『こんにちは』

 当たり障りのない挨拶を送信してみる。参ったな、こういうの慣れてないから、どんな感じで喋ればいいのか全然わかんないよ。

『こんちはー! 参加してくれておおきにー! メンバー足りなくて困ってたんや!』

 コミカルで元気なキャラクターから吹き出しが出る。  こっちのキャラは……関西弁? プレイヤーネームは、『くいだおれ太郎』さん?  奈緒たちの同僚だから、女の子なんだとは思うけど……。

『ううん、別に大丈夫』

 また当たり障りのない返事しちゃった。私、リアルでもゲーム内でも愛想ないって思われそうだな……。

『んーっと。自分の名前、何て読むん?』

 同じ子――くいだおれ太郎さんから画面越しに話しかけられる。  まぁ、読めない人もいるだろうね。私もさっき調べたくらいだし。  スマホの上に親指を滑らせて、ここでの私の名前の読みを、改めて入力した。

『アルタイル』

 そう。私が選んだ名前は『Altair』。彦星だ。  ニューカミングレースから取っても良かったけど……。私のモチーフ、一応美の女神らしくて。"フェアリーテイルズの設定"に関する詳しいこともあんまり覚えてないし、そこから取るのは無理だなと思ったから、今何となく思い浮かんだことを名前にしてみたというか。

『へぇー、彦星? かっこいいね~』

 今度はとんぱちさんからだ。すぐに彦星のことだとわかるだなんて、もしかしたら私より年上のアイドルかな?

『どうも』

 ゲーム内チャットの方へと送信したところで、私はあることに気づいた。

<ところで奈緒は、何でゲーム内の会話に参加しないの?> <あ、あたしはほら。凛のLINK知ってるし……> <奈緒、今変な優越感感じてたでしょ> <か、かんじてないしっ!> <まぁ、いいけど> <よーし、もう一人部屋に入れるぞー>

 奈緒のLINKとほぼ同時に、可愛らしい女の子のキャラクターが部屋に現れた。  名前は……『おりひめ』?  もしかして、これって――。

「響子……?」

 LINKに素早く文字を入力して、奈緒にメッセージを飛ばす。

<奈緒、おりひめさんって?> <あれ、今お前ら一緒にいるんじゃなかったのか?>

 やっぱり、響子なんだ  少しだけ迷った後、

<ちょっと色々あって……。今は別行動中なんだ>

 と、すぐに送信。

<なんだよ。痴話喧嘩でもしたのかー?>

 画面越しなのに、奈緒のニヤけた顔が浮かぶ。  このぉ……。こっちはとてもじゃないけど、そんな軽いノリじゃいられないってのに。

<ほらほら。"とんぱちさん"も言ってるぞー。「うちの響子泣かすなー」ってさw> <とんぱちさんが誰なのか、私にはわかんないよ> <だよなー。ま、さっさと仲直りして響子にでも聞くんだな。"アルタイルさん"のことは、あたしの学校の友達ってことにしといてやるからさ!>

 図星を突かれた上に、上手いこと気遣いまでされてしまった。  本当に今は、何をやっても……って感じだ。

<そうしてくれると助かる。私だって、バレてないかな?> <大丈夫だろ。今ちょうど響子から、凛の名前何て書いてあるのかわからないってLINK来たところ> <そっか>

 渋々送ったLINKにも、奈緒は快活に反応してくれる。  悔しいけど、どこか鬱屈していた気分が紛れていくのを感じる。

『おりひめさん、よろしくね』

 ゲーム内チャットに、メッセージを書き込む。  直接会うことも、LINKを飛ばすこともできない、今の私と響子の距離感。  このゲームはそんな私たちに、偶然降ってきたチャンスなのかもしれない。  346でもない。月海でもない。普段私たちが存在しているどのフィールドとも違う、ネットの中の小さな個室。  だけどここはきっと、"いつもの五十嵐響子"に最も近い場所。  そんな所に私が近づいて、入って行けたのかと思うと、なんだか少しだけ嬉しかった。  楓さんだったら、同じことを思えたかな。  あの人の、"いつもの場所"。  それは多分、この間LINKにアップされていた写真のような場所だろう。  ふふっ。やっぱりちょっと、遠すぎるかな。あと五年は待たないと、お酒の席には座れないしね。

『奈緒ちゃんのお友達の方ですねっ、よろしくお願いします』

 ほら、やっぱり。  たった一文のチャットだけど、今ここにいるのは確かにいつもの五十嵐響子だと感じられた。

『よーし、五人揃ったし早速始めるとするかー!』

 奈緒がそう宣言すると同時に、ゲーム内で私たち五人の、協力ライブが始まった。

「うーん、とんぱちさん上手いな……。それに奈緒も結構やり込んでるっぽい」

 二十分ほどプレイしてみた結果、だいたい私たち五人の実力がはっきりとわかるようになってきた。

 とんぱちさんは、とにかく上手い。リザルトを見ると、ここまでほとんどの曲をフルコンボでクリアしているみたいだし。  一応協力ゲームなので、引っ張る人がいないと全体のスコアが下がってしまうのだけれど。とんぱちさんは私と響子の空けている穴を、ものともせずに埋め続けてくれている。  次点が奈緒。とんぱちさんほどの安定感はないものの、かなりのスコアを荒稼ぎしている。  所々凡ミスをしてしまうのか、その度チャットルームで悔しがるのが奈緒らしい。

 くいだおれ太郎さんは、なんだか不思議な立ち回りだ。  時々奈緒よりいいスコアを出したかと思えば、突然最下位に沈んでみたりする。  決まってミスした後のチャットルームは盛り上がるから、もしかすると笑いを取りに来ているのかもしれない。  実際さっきから面白いしね、この人。奈緒みたいな天然じゃなくて、どこかにちゃんと計算があるっていうか。それでいてミスすることに嫌らしさもないし。良いムードメーカーなんだろうな。  私は三位と五位を行ったり来たり。響子はここまでほとんど四位か五位。  とはいえ私も響子も、初めてのプレイにしては足を引っ張っているというほどでもないらしく、ワンプレイ終わるごとに他のメンバーが褒めてくれたりするおかげで、ストレスを感じることもなく、楽しくプレイし続けられている。  奈緒曰く、「初めてなのにMASTERを叩けるだけでもかなり素質あるぞ」とかなんとか。

『さーて、結構やったし次でお開きにするかー』

 あれ、もう終わり?  一瞬そう思ったけれど、スマホの右上、つまりバッテリー残量を見ると、奈緒の言葉にも納得できた。

「うわ、こんなにバッテリー減るんだ」

 これも奈緒の言うところの、「最近のゲーム」あるあるなのかな。

『最後の曲、Altairが選んでくれよ。ビシッと決まったやつな!』

 ビシッと決まった曲って、どんな曲選べって言うんだろう。  まぁ、言われたからには選ぶけど。

『わかった』

 そう送信してから、登録されている楽曲を眺めていく。  うーん、やっぱりヘクセンハウスとか、岡崎泰葉さんの曲かな?  プレイアデスの曲もかっこいいけど、普段自分たちが歌ってる曲やらせるのも何だし。  ニューカミングレースは却下。さっき奈緒が散々選んでたから。どうせ私と一緒に出来るからって理由に違いない。あの子、そういうとこあるしね。

「あれ、これって……」

 悩んだ末に私の目に留まったのは、NEWの三文字がついたある楽曲。

「evergreen……楓さんの新曲だ」

 こんな名前の楓さんの曲、聞いたことがない。  曲情報を見てみると、どうやら今度発売されるアルバムの先行配信で収録されているということらしい。  それを知った私は、すぐにその曲を選択した。

『おっ、いいセンスだねー。あたしも好きだわ、楓さん』

 とんぱちさんも、楓さん好きなんだ。  まだ一秒も聴いてないけど、これならきっとラストの曲に相応しいよね。

『好きなんですか? 高垣楓さんの曲』

 おりひめが、Altairに話しかける。  一瞬躊躇う私。でも――きっとこの曲に何かの答えがある気がしたから。今の私の気持ちを、後押ししてくれる気がしたから。

『うん。ファンなんだ、楓さんの』

 穏やかな気持ちで、そんなチャットを送信した。

『よし、それじゃプレイ開始だ!』

 奈緒の宣言と共に、スマホの画面が暗転する。  曲が始まる前のクレジット。

 作詞:高垣楓  作曲:関俊彦

 流れ始めたのは、爽やかな夏を感じさせるギターの音。  静かなメロディーラインに乗って、楓さんの歌が聴こえてくる。

『水まきしてた 季節が過ぎて 風の香り 変わりはじめてた』

 未だ拙い操作だけど、そんな私のプレイを導いてくれるかのような音たち。

『緑はやがて 褪せてゆくけど 幹は今も嵐に耐えてる そこに立ってる』

 僅かに苦笑を浮かべた私。  何を考えてるんだろうな。重なるはず、ないのに。  私は……楓さんじゃないから。  だけど次の歌詞を聴いた瞬間、私は全身に鳥肌を立てた。

『誰もが痛み抱いて 迷いも消えなくて この地球(ほし)は淋しさ溢れていて 何を求めてる』

 まさかと思った。いや、そんなはずない。  この曲は、私と響子が月海に来るより前から準備されてたはず。  だけど、これはあまりにも……。  あまりにも、今の私過ぎて――。

『枯れ葉落ちてく 木枯らしが吹いてく 長い冬を超えて 自分の中 春が訪れて 夏は来る』

 あぁ……。そうか。こんなにも。こんなにも簡単なことだったんだ。

『永遠の緑は 心に広がってる そう信じていたい いつの日にも どんな時でも evergreen with you』

 これで何もかも、終わりじゃないんだ。  私と響子が、もう一度来る夏を信じさえすれば。  私と楓さんが、もう一度交わる日を信じさえすれば。  緑は永遠に、待っていてくれる。  あなたと共にって、そう言ってくれているんだ。

 ずっと、考えていた。  こんな楽しい時間が、永遠に続けばいいのにって。  終わらなければいいのにって。  私は知らず知らずのうちに、私自身の心を、あの七月の食甚祭の日に、置いてけぼりにしてしまっていたのかもしれない。

 でも、それじゃ前へは進めない。  これから先にある、新しい道。  それを私自身の手で切り開いて、私自身の足で歩んでいかなくちゃいけないんだ。  "前に進んだから"って、楓さんはいなくなったりしない。  楓さんが色褪せていくなんて、今の私には考えられないけれど。  でも彼女は、嵐にも耐えてくれる。いつだってきっと、私の先にいてくれる。  "前に進んだから"って、響子はいなくなったりしない。  だって、私たちはもう友達だから。  来年もきっと。いや、私たちが望めばいつだってどこだって。  私と響子は、"私たち"になれるんだ。

 視線をスマホに戻すと、チャットルームでみんなが「楽しかった」と言ってくれた。  おりひめさんはたった一言、こう言い残してくれた。

『またね』

 私もそっと、メッセージを入力して、送信した。

『またね』

 別れの挨拶だったり、再会の約束だったりする、便利な言葉。  私はもう、自分から逃げたりしない。  この「またね」と、私は向き合わなきゃいけないんだ。  ゲームアプリを閉じると、すぐにLINKにメッセージが届く。  もしかして、今度こそ――。  LINKを開くと、やっぱりそこには響子からのメッセージ。

<今夜二十四時、私と凛ちゃんが友達になった場所で待っています>

 たったそれだけのメッセージ。  友達になった場所、か。  屋上……ではないよね。それは初めて会った場所だ。  教室をぐるりと見回すと、響子の荷物の側に小さな赤いデジカメが置いてあることに気づく。  あれは、響子の――。

「あの子には、何が見えていたんだろう……」

 一人小声でそう呟きながら、赤いデジカメの電源をつけて中の写真を眺めていく。   そこに写っていたのは、満面の笑みの自分自身。  私すらも見たことのない、新しい渋谷凛の――いや、"響子の自慢の凛ちゃん"の笑顔だった。  驚きながら写真一覧を過去へとスクロールしていくと、だんだん料理や風景の写真が増えていく。  響子、ここで過ごすうちに、私のことだけを見てくれるようになったんだ。  きっとそれまでは、色んなものに気配りをするのが上手な女の子だったはずなのに。  あの子はあの子なりに、この夏で変わっていったんだ。  もちろん、私も――。

 メモリの中に入っていた、一枚の風景写真。  それは、穂含月神社の鳥居の写真。  次に保存されていたのは、町の子供たちと一緒に撮った、私と響子の写真だった。

「ああ、そうだ。あの時、はじめて」

 あなたは名前を呼んでくれたんだ。  友達になった場所。今夜二十四時。  わかったよ、響子。そこで私、あなたに話す。  今の私の、出した答えを。今の私の、想いの全てを。

 約束の時間、約束の場所。  あの日響子と上った階段の前に、今は私一人だけ。  世界はすっかり暗闇に包まれていて、私を照らすのはどこか神秘的な星と月の光のみ。  今日は三日月。道理であんまり明るくないわけだ。  満月の日だったら、夜中でも影ができるくらい明るい町なのに。  私は一歩ずつ、石段を踏みしめながら階段を上っていった。  普段ならこのくらいの階段なんてことないはずなのに、今は数キロ走った後みたいに、心臓がバクバクと音を立てているのがわかる。  この上に、響子がいる。私の答えを、待っている。  ステージに上がるときだって、こんなに緊張しやしない。  ふふっ。好きな女の子に告白されて、その返事をしに行く男の子って、こんな気持ちなのかもしれないな。

 石段を無事上り終えて、お賽銭箱までの道を歩く。  いた。響子だ。境内に座って、私を待ってる。  向こうもこちらに気付いたのか、ゆっくりと立ち上がって数歩だけこちらへと歩いてくる。

「ごめん、待たせたかな」 「ううん、時間ちょうどだよ」 「そっか」 「うん」 「……出したよ、結論」 「うん……」

 響子の両目を、しっかりと見つめる。  一日顔を合せなかっただけなのに、随分久しぶりに響子と会った気さえする。  一ヶ月間毎日すぐ側にいたのに、ほとんど一日半もまともに話さなかったもんな……。  あとはやっぱり、私次第。

 あの時私は、響子に訊ねた。  「どうしてアイドルをやっているの?」と。  あの時私は、響子に言った。  「私も見たいよ、響子と同じ景色」と。  そして、答えなきゃ。  この先私が、何のためにアイドルをやっていくのかを――。

 

第十八話 了

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