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第十話

 

 ぴりっ、という鋭い痛みと共に、この日の朝は始まった。

「ん、んん……」

 呻き声を発して布団から起き上がると、どうやら痛みは左肩から発されているらしいことに気付く。  ……昨日は何ともなかったのにな。  いつ痛めたんだろう。  昨日一日の記憶を思い起こすと、案外簡単に原因には行き着くことができた。

「あの時、か」

 響子が転びそうになった瞬間、とっさに手を伸ばして助けたシーンが、頭の中に思い浮かんでくる。  昨日の夜に自主レッスンしてから、クールダウンもそこそこに寝てしまったというのもあるだろうけれど。  常にズキズキ痛むというよりも、特定の動作や負荷をかけたときに違和感があるという感覚だ。  まぁ、このくらいなら問題ないし、何とかなるだろう。  枕元に置いてあるスマートフォンを見ると、液晶画面の数字は朝の六時三十分を示している。  寝られたのは結局、五時間弱ってところか。  ここに来てから毎日きっちり七時間は寝てたから、今日は少し眠いかも。

「りーん、かれーん。かみのけ、ひっぱるなぁ……」

 うわ、びっくりした。  声のした方を見ると、何のことはない。  そこには大の字で苦しそうな顔をしながら寝言を口走る奈緒の姿があっただけ。

「……ホントに私と北条加蓮でユニット組んでるんだ。夢の中だけど」

 それにしても、『髪の毛引っ張るな』って。  奈緒の夢の世界では、一体どんなことが起きてるんだろう。  私は……。まぁ、ちょっとくらいなら奈緒の髪の毛引っ張ってみるのも悪くないかな。  でも、加蓮って。あのグリムの茨姫が、他人にそんな易々と心を許すとは思えないな。

「ふあぁ……おはようございます凛ちゃん」 「あぁ、おはよう藍子」

 次に起きてきたのは藍子だ。  眠たげな目を可愛くこすりながら、私に微笑みかけてくれる。

「さすがにちょっと眠いですね……」 「うん」 「忍ちゃんは……ふふっ、まだおねむのままみたい」 「私たちが終えた後、まだ少し屋上に残ってたみたいだしね。屋上の鍵は……。あ、ちゃんと枕元に置いてある」 「もう少しだけ、寝かせておいてあげましょうか」 「そうだね。朝ごはんできたら、起こしてあげよう」

 二人で頷いた直後、教室のドアが控えめな音と共にゆっくりと開く。

「おはよう~。二人とも、もう起きたんだ」

 小さな声で朝の挨拶をしてくれたのはかな子だった。  まだ寝ている子たちへの配慮を忘れないのが、いかにも彼女らしい。

「おはようかな子。もう起きてたんだ」 「うん。なんとなく目が覚めたから、先に顔を洗って歯を磨いてたんだ。高森さんも、おはようございます」 「おはようございます三村さん。私も、朝の準備しようかなぁ」 「水道、教室の目の前にあるからね」

 藍子は鞄からタオルに歯ブラシ、櫛を取り出しながら、ほんの少し迷うような仕草を見せている。

「うーん……。せっかくですから、外の水道使います。眠気覚ましにもちょうどいいですし。それに、素敵な写真も撮れるかも……」

 そう言って、なんとカメラの準備も始めてしまった。  朝の散歩、したいのかな。  こんなところに来てまで……。  いや、こんなところまで来たからこそ、なんだろうな。

「それなら、グラウンドの端っこにも水道があるから、そこ使いなよ。でも朝ごはんの支度も始めなきゃいけないから、なるべく早めに戻ってくるんだよ」 「ありがとう凛ちゃん。私、ちょっと行ってきますね」 「あのぉ~、高森さん。私もついていっていいですか?」

 あれ、かな子も藍子の散歩に興味があるのかな。

「もちろんいいですよ。それじゃ、三村さんも一緒に行きましょうか」

 あっという間に、二人は連れ立って教室から出て行ってしまった。  かな子、すごいな。  ああやって誰も気づかないうちに、知らないところで色んな人と仲良くなってるのかもしれない。  ……私も髪、梳かさなきゃ。  それにしても、忍や奈緒はともかく響子もなかなか起きないな。  普段は私より、少し早く起きてることが多いのに。  そう思って隣の布団を見ると、なぜか毛布が二枚使われている。  一枚はいつも通り身体にかかっているものの、もう一枚はなぜか肩から顔にかけてを覆い隠している。

「朝から結構暑いのに、こんなにしたんじゃ汗かいちゃうよ」

 肩にかかっていたそれをめくろうとしたその瞬間――。

「凛、ちゃん……?」

 毛布の中から、微かに響子の声が聞こえてくる。

「なんだ響子、もう起きてたんだ。何でわざわざ毛布二枚使ったの?」 「……っ」 「響子?」 「教室っ、ちょっと寒かったから。エアコン、効きすぎてたみたいで……」

 あぁ、そういうことか。  昨日屋上でレッスンしてここに戻ってきたとき、まだ身体が火照ったままだったから、エアコンの温度下げたっけ。

「ごめん。私が温度下げたんだ。ちょっと夜中寝苦しくなっちゃったから」 「そう……なんだっ」

 おかしいな。  こうして喋ってるんだから、確かに目は覚めてるはずなのに、全然起きてくる気配がない。

 それどころか、どこか具合が悪そうに布団の上で丸まったままだ。

「大丈夫? もしかして、体調悪いの?」 「……ごめんね、凛ちゃん」 「え?」 「……今月の、来ちゃったみたい」 「!」

 そんな、まさか。  食甚祭はもう明日に迫ってて、今日も準備や最終確認で忙しくなるはずだったのに。  しかもこの様子じゃかなり重そうだ。  最悪今日は丸一日、下手したら明日まで動けないままってこともあり得る。

「待ってて響子。今皆口さんに話して――」

 立ち上がろうとした瞬間、毛布の中から伸びてきた手が、私の服の裾をつまむ。

「待ってっ。私、やれるからっ」 「無理だよ。身体、辛いんでしょ? 肝心の本番はまだ先だし、最悪明日は他の誰かに――」 「嫌ッ!!」

 いつになく大きく、そして感情的な声。  思わず全身がびくっと跳ねる。  奈緒と忍は――良かった、何とかぐっすり眠ったままだ。

「お願い凛ちゃん。午前中、ううん。十時まで休ませて。その後はきっと、大丈夫。ちょっと貧血気味なだけだから……」 「でも、そんなすぐに良くなるなんて保証どこにも……」 「おね、がい……」

 裾をつまんでいる手に、力が込められていくのがわかる。  気持ちは私だって同じだ。  八月十日に行われる、本番のライブの前哨戦とはいえ、たくさんの人たちの前で私たちのパフォーマンスを披露する、初めての機会なんだ。  代役を立てることそのものは、おそらく出来ないことはない。  忍か藍子ならこれまでの積み上げもあるし、一日あれば私に合わせるところまでは持っていけるだろう。  だけど、それじゃ何の意味もない。  私たちが見せたいのは、誰もが聴き惚れるような歌や、見とれるようなダンスじゃない。  響子と積み上げてきた絆、やってきたことの全て。  それを披露するためだけに、ここまで頑張ってきたのだから。

「わかった。でも、皆口さんにはちゃんと報告するからね」 「うん、ありがとう……。ごめんね……」

 響子の謝罪を背に、私は教室を出た。  パジャマにしているジャージのまま、皆口さんが普段控えている(元)職員室へと向かう。  歩いている間に、スマートフォンの無料通話アプリ『LINK』を立ち上げる。  昨晩作った六人のグループに向けて、メッセージを打ち込むためだ。

<響子、ちょっと貧血気味らしいから朝ごはん作れないって> <そんなに酷くはないらしいけど、しばらく起こさないであげて>

 送った二つの文にすぐに既読がついたかと思うと、かな子からは可愛らしい、

<りょうかい>

 のスタンプが飛んでくる。  藍子からは、

<お薬、持ってきてありますよ!>

 というメッセージが。  とりあえずあの二人に任せておけば、響子のことも朝ごはんのことも問題ないはずだ。  よし、着いた。  一応ドア、ノックしておこうかな。

 こんこん

「どうぞー」

 中から皆口さんの声が聞こえたのを確認して、がらがらとドアを横に滑らせる。

「おはよう皆口さん。ちょっと、話があるんだけど」 「ん? どうかした?」

 こんな朝早くから、パソコンに向き合って仕事してるんだ。  皆口さんが何だかんだ仕事熱心で助かったよ。

「響子がさ、たまたま今日来ちゃったみたい。本人は『少し休めば大丈夫』って言ってたけど、十時までは横になっていたいって」 「あぁー……来ちゃったか。周期はこっちでも把握してたんだけど、今月に限って少し早いとはね。まずいなぁ……」

 多分、どこの部署のどのアイドルもそうだと思うけど。  体調管理の一環ということで、一ヶ月のうちだいたいどの時期がそれに当たるかは、プロデューサーがきちんと把握することになっている。  そうでないと、健康に配慮したスケジュールも組むに組めない。  さっき私が素直に『報告する』と言ったのもそのため。  どうせだいたいの時期を把握されてはいるのだから、始まってからあくせく隠してみたところで、大した意味はないからだ。

「その、明日のことなんだけど」 「わかってるわ。最悪代役も考えなくちゃいけないけど、何とか二人をミニライブのステージに立たせる方向で考えるつもりだから、そこは安心して」 「うん。私もそのつもり」

 良かった。皆口さんも、私たちと同じように考えてくれているんだ。  教室に戻ったら、響子を安心させてあげないと。

「渋谷さんは大丈夫? それに限らず、体調全般」 「私は元々、わりと軽い方だから。授業とかも、休んだりしたことないし。今だってどこも――まぁ、大丈夫だよ」

 さりげなく左肩をさすりながら、私は曖昧にそう言った。  響子の方が、もっと辛いはずなんだ。  たかが違和感くらいのことで、弱音を吐いてる場合じゃない。

「そう、ならいいわ。響子も普段はそうなんだけどね。どうして今月に限って……」

 皆口さんは溜め息をつきながら、憂鬱そうに頬杖をつく。  普段はともかく、少なくともさっきはかなり辛そうに見えたけど……。

「まぁいいわ。他の子たちにはもう伝えてある?」 「まだ寝てる子もいるけど、さっきLINK送っておいたから、すぐに気づくとは思う」 「わかったわ。それと、もう一つだけいいかしら?」 「何?」 「響子がしばらく動けないんじゃ、明日の準備をやるにしてもイマイチ捗らないでしょう? せっかくだから午前中いっぱい、他のみんなに町を案内してあげてくれる? あなたたちが戻ってくる頃には、響子の体調も少しは良くなってるかもしれないし」

 なるほど。時間の使い方としては、確かに有効だね。  他のみんなにも町のことを知ってもらうのは悪くない。  それに響子も十時まで何て言わずに、午前中だけでもしっかり休むべきだ。

「わかった。それじゃ、朝ごはん食べたら外に出かけることにするよ」 「えぇ。祭りの準備は午後からやることにしましょう。基本的には町の人たちのお手伝いだし、その辺は私が小山さんたちに話をつけておくわ」 「うん、ありがとう」

 それだけ言うと、私は職員室を後にした。  窓から降り注ぐ日差しは今日も強く、とても眩しい。  気温もかなり高いし、普通に過ごしてるだけでも体力を取られてしまいそうだ。  慣れない環境というのもあるし、多少体調を崩してしまうのも無理はない。  昨日の晩ごはんのときは、響子も何てことなかったのにな。  町の人に色々振る舞ったり、美味しそうに食べたりしてたのに。  まぁ、これ以上気にしても仕方がない。  幸い普段はここまでの症状にならないみたいだし、薬を飲んで少し休んで、それで回復することを祈るしかないね。  さて。まずは朝食作り、それからみんなに町の案内、か。  今日も一日、私は私のやるべきことをやらなきゃ。

                *

「ふぅ、これで一周。校門の前まで戻ってきたね」 「いやぁ~。こう言っちゃなんだけど、ザ・田舎町って感じだったな」

 隣でそう言いながら笑う奈緒。  ここ、一応奈緒の住んでる県の一部なんだけど。

「ふふっ。でもこの辺り、すごくのどかで良い所だと思います。朝は学校周りだけしか写真撮れなかったけど、この町のいい写真がたくさん撮れました」 「住んでる人たちも優しかったよね! アタシたち見ても驚かなかったのは、まぁちょっと物足りなかったけど……。三村さんはここのこと、どう思った?」 「私? それはもう、とっても穏やかでいい町だなぁって!」

 まぁ、穏やかなことだけは間違いないよね。

「あっ、でも……。子供たちはともかく、年配の人たちはアイドルのこと、あんまり詳しくないみたいだね。凛ちゃんのこと見ても、驚く人あまりいなかったもん」

 行く先々でいちいち色んな人にびっくりされるかもしれない方の身にもなってもらいたいよ。  とはいえ、『遊ぶところは何にもない』なんて言ったけど、海は綺麗だし人は優しいし、ここはここで東京とは違った落ち着きがあっていいと思う。

「あっ、見てよ凛! あの車!」 「どうしたの忍? うわ、最悪……」

 職員玄関横の駐車場に止められていたそれは、忘れたくても忘れられないあの車。  そう。他でもない、中村プロデューサーの車だった。

「あはは……。凛ちゃん、そんなに嫌な顔しなくてもいいのに」 「藍子はよく平気だよね。あんなガサツなプロデューサー」 「確かに変わった人ですけど。でも、悪い人じゃないですから」 「悪くなければ良いってことじゃないと思うけどな」

 途端に学校の中に戻るのが嫌になってきた。  時間が許すならもう一周町をぐるりと回りたいくらいだ。  忍や藍子は私と違ってプロデューサーに好感を持っているみたいだけど、基本的に大きな割を食うのもイジられるのも、いつも私の役回りだ。

「凛、見るからに不機嫌な顔になったな」 「そりゃまぁ、嫌なものは嫌だからね」 「でも、響子ちゃんの具合も気になるし……」

 かな子の言う通りで、中に誰がいようが関係なく、戻らなければならない事情もある。  渋々昇降口に入り、下駄箱を開け、靴を履き替えて階段を登る。  三階まで登り、普段寝起きしている教室の隣に設置されたミーティングルームのドアをガラガラと開けると、

「よぉ凛。今週も様子、見に来たぜ」 「はぁ。来てくれなんて頼んだ覚えないんだけどな」

 案の定、教室の中ではプロデューサーが私を待ち構えていた。  私が戻るのを待っていたのか、大分手持ち無沙汰な様子だ。  椅子に座って両手を頭の後ろに組みながら、備え付けの学習机に足を乗せるその姿は、もはやプロデューサーではなくただの怪しい不良にしか見えない。

「忍と藍子も、リフレッシュ出来てるか?」 「うん。なんか久々に、田舎に帰ってきたなーって感じ。なんだかんだ言ってもこういう空気、落ち着くなぁ」 「私も楽しいです。こういうところでゆっくり写真撮る機会も、最近は滅多になかったですから」 「おう。そいつは何よりだ」

 まぁ、プロデューサーのことよりも、だ。  肝心の響子はプロデューサーの隣で肩身が狭そうに苦笑いを浮かべながら、これまた備え付けの椅子にちょこんと腰掛けている。  そして皆口さんは、なぜかCDコンポの置いてある教卓に両手をついてどや顔をしている。  ……もしかして、女教師のつもりなのかな? 「おはよう響子。具合、良くなった?」 「おはよう凛ちゃん。心配かけてごめんね。少し朝ごはん食べてお薬飲んだら大分楽になったから、もう大丈夫だと思う」

 気丈に振る舞ってはいるけれど、未だ完全復調には程遠そうだ。  昨夜はよほど症状が重かったのか、目の下にはうっすらクマが残っているし、瞼も心なしか腫れているように見える。

「みんな戻ってきたわね。お昼ご飯はもう食べた?」 「はい! 今日はファミレスで食べてきましたっ。ふわとろオムライス、美味しかったなぁ……」

 かな子の言葉に後から小声で、

「町で唯一の、ね」

 と付け加える。

「なら良し。渋谷さん以外の四人は、すぐに裏手の神社に向かいなさい」

 どこから取り寄せてきたのやら、皆口さんは手に持った指差し棒を黒板にビシッと当てて、私たちに指示を出す。

「アタシたちは、そこで何をすればいいの?」 「明日のお祭りの準備を手伝いに行くのが、あなたたちに与えられた午後の仕事よ。管理人の小山さんって人に話はつけてあるから、その人の指示に従うように。わかった?」

 忍はそれを聞いて、いかにもワクワクした様子で頷いている。  しかし奈緒の方は少し休みたいのか、見るからに不満げだ。 

「戻ってきて早速かよー? アイドル使い荒いなぁ」 「あら奈緒。アイドルらしい特別レッスンの方がお望みなら、それはそれで別途検討しても――」 「わかった、わかったよ! それじゃ凛、響子。また後でな」

                 *

 四人は指示に従って、そのまま教室から出て行った。  直後に準備運動を命じられた私たち二人は、ライブ前と同じように、柔軟体操などをして身体をほぐしていた。  左肩はほんの少し違和感があったものの、やはり動かすのに大きな問題はない程度の症状だ。  二つのパイプ机とパイプ椅子、それに教卓の上にある小さなCDコンポ以外に何もない教室。  そこに残ったのは私と響子、それにプロデューサーと皆口さんだけということになる。

「さて。凛と響子ちゃんは明日行われるミニライブに向けての最終確認だ。とはいえ、今日までやることはしっかりやってきたっていう報告は受けてるから、そんなに心配しちゃいねぇ」 「早速だけど、今からここで明日の曲目を披露してもらうわ。曲目は『ビードロ模様』よ。できるわね?」 「うん、問題ないよ。でも、響子はまだ……」 「凛ちゃん、私なら大丈夫だって――」 「そう心配すんなって。響子ちゃんの体調のことはオレも聞いてる。何も『誰もが納得する、完璧なパフォーマンスを見せろ』って言ってるわけじゃねぇ。今やれるお前たち二人のベストが確認できりゃ、それでいい」

 私たちが今やれる全力、か。  まさかこうなるとは思わなかったけど、ライブ直前のアクシデントなんてアイドルには付きものだ。  大丈夫。  出来る限りのレッスンは積んできたし、響子と心も通わせてきた。  多少のハプニングくらい、乗り越えて見せる。  教室の後ろで響子と二人、ライブ開始前と同じポジションにつく。

「行くよ、響子」 「……うん」

 皆口さんは教卓越しに立ったまま、プロデューサーは椅子から少し上半身を乗り出して私たちを見つめる。  CDコンポから緩やかな前奏が流れ始めると、それに合わせて私たち二人は緩やかに両手を開き、広げ、掲げていく。  最初は優しいハミングのハーモニー。

 優しく、あたたかな気持ちで――。

『探していた 好きになる理由を』 『もっともらしい言葉だとか』 『気づいたとき 糸は縺れ合って』 『固結びがひどくなってた』

 ここで手を合わせて、見つめ合いながらポジションを入れ替える……。  よし、上手く行った。  サビ前からは徐々にテンションを引き絞り、身体の中にある感受性をどんどん鋭く研ぎ澄ませていく。

『躊躇わないで 言えたのなら』 『君はもう泣かないの』

 よし、ここで一気に左手を上に突き上げ――。

「っ!?」

 ビリッという筋肉が裂けたかのような感覚と同時に、肩周りにかけて一気に不協和音が鳴り響いた。  苦痛に思わず顔が歪んだのが、自分でもわかる。

「凛っ!!」 「凛ちゃんっ!!」

 呆然と左肩を抑える私の耳に飛び込んでくる、プロデューサーと響子の声。  あぁ、もううるさいな。  そんな大きな声出さなくたって、わかってたことなんだよ。  このくらい、何ともないっていうのに。

「ストップ、そこまでよ」

 この場所に流れていた、あらゆる流れが止まった気がした。  時間も、音も、想いも、全部。 「……ごめん、ミスしちゃった。もう一度最初から――」 「ダメだ」 「出来るよ。今ちょっと変な感覚がしただけ――」 「いい加減にしろッ!!」

 二人同時に、びくっと肩を竦ませる。  普段のヘラヘラした表情とは比べ物にならない形相のプロデューサーは、容赦なく私たちの頭上に雷を落とした。

「いつからだ?」 「……何、が」 「肩だ。お前今、『やっぱり』って顔してやがった」 「……」 「普段から口を酸っぱくして言ってるはずだ。『どんなことでもいい。些細な違和感も隠さず話せ、報告しろ』ってな」 「それはそう、だけど」 「『だけど』じゃねぇ! 怪我の程度の問題だけじゃ済まねぇんだよ、こういうのは!」  「はいはい、二人ともわかったから」

 皆口さんは呆れた様子で、私とプロデューサーの間に割って入ってくる。   確かにプロデューサーは、前から私にコミュニケーションの重要性をずっと説いてきた。  たとえば、怪我の程度、喉の違和感、体調の不具合など。  目の前のイベントに賭ける気持ちはともかく、症状そのものを偽ったり隠したりすると、お互いがお互いを信じることができなくなってしまう。  一時を誤魔化しで乗り切るリターンよりも、プロデューサーとアイドルの信頼関係にヒビが入ってしまったときのリスクの方が、限りなく大きい。  だからこそ、『何でも隠さず話せ。自分に非があったとしても、そのことを素直に謝ればそれでいい。オレもお前たちのために、次のことをすぐに考えるようにする』と。  プロデューサーからは、そう言われ続けてきたんだ。  でも、今日は。今日だけは。  わかっていても、意地を張るしかなかったんだ――。

「渋谷さん。朝も聞いたけど、もう一度だけ聞くわ。本当に、身体のどこにも違和感はないのね?」 「……左肩に、少しだけ違和感が」 「はぁ……。それはいつから?」 「あ、あのっ! 凛ちゃんは何も悪く――」 「響子、あなたの話は後で聞くから。ね?」

 優しい声でそう言われた瞬間、響子の中でも何かが切れてしまったのだろう。  鼻をすすりながら、ぽろぽろと涙の雫を教室の床に落としたかと思うと、手で顔を覆って膝からその場に崩れ落ちてしまった。  ここで私が、肩を痛めた原因を包み隠さず話してしまえば、響子はどうなってしまうんだろう。  でも、これ以上プロデューサーに本当のことを言わないわけにもいかない。  握った手のひらの中で、じわじわと脂汗が出てくるのがわかる。  アイドル渋谷凛として、正しい決断をしたとしても。  五十嵐響子の友人渋谷凛として、正しい決断をしたとしても。  どちらを選んだって何かが崩れてしまう。  私は、一体どちらを選べば――。

「なるほど、そういうことか。悪かったな凛、それに響子ちゃんも。空気を読めなかったのは、どうやらオレの方だったみたいだ」

 手で後頭部をボリボリと掻きながら、気まずそうに謝るプロデューサー。  まさか……。もう全てに気づいたっていうの?

「ほんと中村くん、渋谷さんのこと溺愛してるのねぇ。関くんのこと、あんまり笑えないんじゃないの?」

 皆口さんは随分呆れた表情でプロデューサーを見るが、

「さすがにあいつと一緒にされるのは心外だな姉さん。才能あるやつを大事にするのは、この業界にいる以上当たり前のことだと思うぜ?」 「それ、彼も同じこと言いそうよね」 「うるせぇ」

 プロデューサーはプロデューサーで、少しバツが悪そうにそう言い返す。

「まぁ、そういうことにしておきましょうか。さて、私もだいたいの察しはついたけど。一応最低限の事実関係だけは、はっきりさせておかないとね」 「だな」

 だいたいの察しはついた、って……。  ダメだ。やっぱり、この人たちに隠し事はできそうにない。  響子がこういう状態な以上、ここから先は聞かれたことの中で、話せるだけのことを私から話すしかない。

「凛が怪我した原因、響子ちゃんで間違いないんだな」 「……うん」 「ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」 「よしよし。起きちゃったことは、もうしょうがないから」

 皆口さんも床に膝をついて、優しく響子を抱きとめてくれている。  正直な話私自身、何がどうしてこういう状況になってしまったのか、未だによく理解できていない。 私が怪我をすれば、色んな方面に迷惑がかかるということそのものは、私なりに理解しているつもり。  ただ、実際に今起きている症状は、おそらく本当に軽い肉離れ程度のものだろう。  痛みそのものは一瞬激しかったものの、実際の病状はそれほど深刻じゃなかったというパターンは、この手の怪我によくあることだ。  今私が一番わからないのは、響子がどうしてここまで私の挙動一つ一つにショックを受けるのかということ。  それがどうしても、感覚として上手く飲み込めないんだ。  私のことを大切に思ってくれているにしたって、一体何でここまで……。

「中村くん。悪いけど私、響子を保健室に連れていくわ。渋谷さんからの話は……」 「あぁ。そうして貰えるとこっちも助かる。姉さんは響子ちゃんをケアしてやってくれ」 「そうさせてもらうわね。大丈夫響子? 立てる?」

 こくこくと僅かに頷きながら、響子は何とか立ち上がり、皆口さんに連れられて教室から出て行ってしまった。

「はぁ……」

 緊張の糸も切れたのか、思わず私の口から漏れ出る溜め息一つ。

「まさか凛が、ここまで他人を庇おうとするなんてな」 「……だから謝ってくれたんだ」 「お前の迷った表情見て、やっと気づいたんだよ。自分でこんな舞台セッティングしておいて、アイドルの成長を見誤るとはな。情けないったらありゃしねぇ」 「私、そんなにそういうことしないように見えてたの?」 「むしろここに来る前の凛なら、素直にオレに報告したんだろうな。でも今は、それを言えば相手が傷つくと思ったからこそ、隠そうとしたんだろ?」 「まぁ、それは……」

 言われてみれば、そんな気がしなくもない。  たとえばここに来る前、この状態になったのが忍との間だったら、私は一体どうしただろう。  ……きっとプロデューサーが言う通りの行動を取っただろうな。  もちろん忍が嫌いというわけではないけれど、それだけ響子との関係は、これまでの私にないものだったということになる。

「さて、もういいだろ。いつ、どこで、どんな風に痛めたんだ。左肩」 「……昨日のお昼ご飯前かな。家庭科室に行く前、響子が写真撮ろうとしてさ。バランス崩して倒れそうになった響子の右手掴んだら、その時ピリッって」 「じゃあ、響子ちゃんの右肩も?」 「それはわからない。でも、結構強い力はかかったから……」 「実際の症状は、どれくらいのもんだ」

 左腕を伸ばしたり曲げたりする分には、問題ないようだ。  前後左右に動かすのも、大丈夫そう。  要するに、日常生活には一切支障がない程度だ。  だけど……。

「肘を肩より上に上げようとすると、やっぱり結構痛いかな。急激な動きをするのも、これじゃ難しいだろうね」 「なるほどな。症状そのものが軽いのは、不幸中の幸いだ。それにしても……」 「どうかしたの?」 「凛。お前響子ちゃんと、他にも何かあったのか? あの子の体調に関してはオレも聞いてるし、そんな中デカい声出したオレもオレなんだが……」

 ホント、その通りだよね。  良い機会だし、たまには嫌味の一つでも言い返してやろう。

「端から見たらデリカシーの欠片もないよね、プロデューサー。一応私の心配してくれたみたいだから、これ以上色々言うつもりはないけどさ」 「ぐっ、今日は何も言い返せねぇ……。だが、やっぱりあの動揺ぶりはちょっと普通じゃない。これまでが順調だったなら尚更だ。何か一つでもいい、思い当るようなことはないのか?」

 そう言われても……。  私自身もプロデューサーと同じように感じていたのは事実だ。  今日の響子は体調のことを抜きにしても、相当様子がおかしい。  ただ問題は、肝心の『なぜ』が掴み切れないことなんだ。  昨日までは本当に普通だったし、それがたった一日でここまで不安定になるなんて思えない。

「ごめん、プロデューサー。そこは本当に、私にもわからないよ。さっきみたいなこと言っておいてなんだけど、多分プロデューサーのせいでもないだろうし」 「そうか。まぁ、これ以上は裕子姉さんに任せるしかなさそうだな。とりあえずオレたちは病院行くぞ。大したことなさそうなのは本当だとしても、治りは一時間でも早い方がいい」

 そして私はプロデューサーの車に乗せられて、町にある病院へと向かった。  ガタガタと揺れるレストア車は、お世辞にも患部に良いとは言えないものだったかもしれない。  でも、その日のプロデューサーの運転は。  いつもよりほんの少しだけ、優しかったような気がしたんだ。

                 *

 病院での診断は、思った以上に呆気ないものだった。  医者の先生曰く、

『症状は軽い肉離れ。回復力にもよるが、全治には一週間もかからないだろう。湿布を処方するので、しっかり患部に貼ること。明日どうしても動かなければならないのであれば、患部をテーピングなどで固定の上運動するように』

 とのことで。  あまりにも月並みと言えば月並みな説明だったけど、どうやらそれが診断結果なのだから仕方がない。  これによって、ミニライブに出られないという最悪の事態は回避できた。  もちろん、同時に大きな枷を背負っているわけでもあるのだけれど。  症状を説明したとき、響子はひとまず安心してくれたようだった。  後で皆口さんからも響子についての話を聞いたけど、やはり彼女も私と同じように、右肩に違和感を覚えているらしい。  ただ、症状は私よりもさらに軽いらしく、明日に関してはほとんど問題がないということだった。

 一方で、なぜ響子が急にここまで神経質になっているのかに関しては、皆口さんを持ってしても何もわからず終いだったそうだ。  初めて自分に大きな注目が集まるであろうライブを前にして、自分でも気づかない部分でナーバスになってしまっているのではないか……とは言っていたけれど。  私も皆口さんも、その漠然とした、それでいてもっともらしい推測に、心からの確信を持ち切れなかったのだ。

 その後お祭りの手伝いにも出向いたものの、おおよそのことは奈緒たちがこなしてくれていたのもあって、私がやることはほとんど残っていなかった。  その上左手で物を持ったり出来なかったから、僅かに残された仕事についても、あまり役に立てたとは言えない。  幸いなことに、奈緒や忍と一緒に町の子供たちの相手をすることができた。  響子もその時だけは、ほんの少しだけど元気を取り戻したような雰囲気を見せていたし……。

 神社で小山さんに怪我の報告をすると、迷惑をかけているにも関わらず、彼女は私と響子のことを真っ先に労わってくれた。  明日は激しいダンスは難しそうだと伝えると、彼女なりに考えてくれたのか、衣装を赤と青の巫女服に変更してはどうかという提案を出してくれた。  それなら激しいダンスを踊る必要もないし、これまで覚えたダンスの中でも、動きの少ない部分だけを取り入れれば、十分お祭りに映えるだけのパフォーマンスはできるだろう。  その話を受けて、プロデューサーたちとも相談した結果、翌日のダンスメニューを少しずつ、今出来る範囲のものへ変更することが決まった。  既に覚えている踊りの組み合わせを変えるだけなので、変更そのものは難しくない。  それによって、なんとかミニライブで披露するダンスの目処は立てることができた。

 しかしそれでも。  未だ名もなき私たち二人のユニットは、万全とは程遠い状態にあった。  私の症状は湿布とテーピングである程度緩和できるはずだけど、響子の方はおそらく、明日の方がより辛い症状になっていることだろう。  お互いのフィジカルもそうだけど、何よりメンタルの方が深刻だ。  仮にも初ライブ前日なのに、ほとんどまともに会話をすることもなく、とうとう時刻は夜の十一時半。  消灯からは、既に一時間半が経過している。

 こんな状態で明日を迎えてもいいのだろうかという迷いは、未だ消えないままだった。  布団の中で私は、改めて響子とのこれまでを思い返していた。  自分で言うのもなんだけれど、響子にはちゃんと信頼してもらえていると思う。  少し不安になってしまう部分を、たまに見せてはいたけれど、これまでは私が励ませば、何とかついてきてくれていたのに。  もちろん私だって、そんな響子のことを信頼しているし、それを響子にもちゃんと伝えているつもりだ。

 どこかで何かを、見落としている……?  あるいは私の知らない響子の一面が、まだ残されているってこと?  家事が得意で、料理が好きで、年下の面倒見が良くて。  どんな人からも愛される、そんな人当たりの良さが長所の女の子。  たまに足元がお留守だったり、落ち着きがなかったり、ほんのちょっぴり独占欲が強かったりもするけれど。

 やっぱり、わからない。  はぁ、悩んでたら何だか急に歌いたくなってきたな。  本番前日とはいえライブは夜だし、ちょっと屋上で自主レッスンするのも悪くない。  ダンスは無理でも、歌ならいつも通り歌うことができる。  他のみんなはもう寝ているだろうか。

 起こさないように、そっと抜け出さないと……。

「行かないで……」 「響子? まだ、起きてたの?」

 まるで今朝のデジャヴのように、毛布の中から伸びてきた手が、私の服の裾を捉える。

「どこにも、行かないで……」 「そんな……。ちょっと屋上で自主レッスンしようかなと思っただけ。私はどこにも行かないよ」 「そうじゃない、そうじゃないよ。凛ちゃん……」

 まるで怖いことを思い出した子供のように、響子は何かに怯えきっているように見えた。  一体、響子は何を怖がっているのだろう。  最初は上手く行かないこともあったけど、途中からは順調すぎるほど順調に、ここまで来られているというのに。  ……こうして考えても、仕方ない。  私がいることで、少しでも響子が安心できるのなら。  今はただ渋谷凛が必要だと、響子がそう言ってくれるのなら。

「わかった。明日の朝まで、ずっと響子の隣にいるから」 「うん……。ごめんね、凛ちゃん……」

 布団と毛布を響子の側に寄せ、そして伸びていた響子の右手を、左手で優しく握り締める。

「ふふっ。あったかくて気持ちいいなぁ、凛ちゃんの手」 「そう? 響子の手は結構ひんやりしてて、この季節だとこっちの方が気持ちいいけど」

 実際はたった一日ぶりなはずなのに、響子の素直な笑顔を見たのは随分久しぶりのことな気がした。  数十センチの距離で真っ直ぐ向き合った私たち二人は、それぞれの手を握り締めることで、掴めるはずのないお互いの心をも、強く強く抱き締めようとしていたのかもしれない。  そうしていると、例えようのない愛おしさみたいなものが、心の中から溢れてくる。 「響子。明日は、私が響子を守るよ」 「えっ?」 「肩のことは、もう大丈夫。元々無理しなければ大して痛くもないんだし、歌の方はいつも通り歌える。でも、響子は明日もっと重くなるかもしれない。だから、ね?」

 響子は私の言葉を聞くと、頬に一筋涙を伝わせた。  私は右手の人差し指で、優しくそれを拭った。  そして。

「ありがとう。凛ちゃん、本当に、本当に優しいんだね」

 私の手を自分の胸に押し当てて、響子は泣き笑いを浮かべながら、小さな声で、でも確かに言った。

「私、明日は頑張るね。私を照らしてくれる、お日様みたいな凛ちゃんのために――」

 その時の私は、探して、見つけてしまったんだ。

 響子の心を、上手くあたためる方法を。  響子の心を、上手く抱き締める方法を。  響子の心を、上手く閉じ込める方法を。

 それは例えば、もっともらしい理由だとか。  それは例えば、もっともらしい場所だとか。  それは例えば、もっともらしい言葉だとか。

 複雑に絡み合った私たち二人の心と手の平は、まるで酷く縺れた固結び。  それでも私たちの時間は、動いていく。  物語の終わり、その始まりへと向かって――。

 

第十話 了

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