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第七話


 

「よし、一コマ目のボーカルレッスンはここまで!」 「ふぅ、ありがとうございました」 「ありがとうございましたっ!」

 音楽室の窓から降り注いでいる強い日差しは、いよいよ夏本番がやってきたことを、猛烈な勢いを以てして、私たちに知らせてくれている。  これまでは半袖が心地良い日もあったけど、今日からは毎日こんな感じだろうな。  時刻はまだ朝の十時を回ったばかりだというのに、部屋のクーラーは絶賛全力稼働中だ。  先日配られた制服の袖で軽く額を拭いながら水を飲んでいると、

「二人とも、上手く噛み合うようになってきたじゃないか。最初は一体どうなることかと思ったが……」

 と、トレーナーさんが驚いたような様子で私たちに話しかけてくる。

「うん。大分響子の呼吸というか感覚というか、そういうのが掴めてきた気がする。今日の花風って曲も、かなり上手くやれたと思うし」 「私もです。もしかしたら、凛ちゃんとの間がわかってきたのかもしれません。普段の生活だけじゃなく、歌っているときや踊っているときも」

 私たちの感想を聞いて、トレーナーさんは、

「だんだんと、ユニットとしての形が見えてきたのかもしれないな。ここ数日は非常にいい状態が続いているし、これなら本番までにキッチリ仕上げられると見ていいだろう」

 そう言ってにこやかな笑みを見せてくれる。

「本当ですかっ!?」 「ただし、五十嵐が今の状態を維持できるなら、という条件付きだがな」 「うっ。そ、そうですよね。あと三週間、かぁ」

 表情をころころ変えて一喜一憂する響子を見ていると、自然と私の心も綻んでいく。

「できるよ、響子なら。一緒に頑張ろう」 「凛ちゃん……。うん、頑張ろう! 一緒にっ!」

 自分で言うのもなんだけど、柄じゃないことを言うようになったなと思う。  ニューカミングレースでは、もっとがむしゃらに突き進んでばかりだったし、それで何も困ることはなかったから。  思えばこの二週間だけでも、色々なことがあった。  ここで響子と過ごすことで、私の中でも何かが変化し始めているのかもしれない。  それが何なのか、どうしてなのかは正直よくわからない。  でも、さっきの言葉は。  響子と一緒に頑張りたいという想いは、紛れもなく私の――渋谷凛の、本心だと思う。

「おはよーうっ。今日も一生懸命やってるわねー」 「おはようございます皆口さんっ」 「……どうも」

 レッスンが終わる時間に合わせたのか、やけにちょうどいいタイミングで皆口さんが音楽室へと入ってくる。  この感じ、どうも待ち伏せの匂いがする……。

「聖ちゃん、この二人どう? だんだん良くなってきたんじゃない?」 「想像以上に順調ですね。特に五十嵐の上達ぶりには、目を見張るものがあります」 「ふっふっふ、うちの響子が本気出せばこんなものよ」

 軽く腕組みをしながら、皆口さんはものの見事な、いわゆるどや顔を浮かべている。

「……何で皆口さんがそんなに自慢げなんですか」

 ほんの少しだけ頬を膨らませる響子。

「自分のところのアイドルがよくやってると言われて、嬉しくないプロデューサーはいないわよ。実際最近の響子は、よくやってると思う。意識が変わったことで、行動が変わりつつあるのを、自分でも実感してるんじゃない?」 「えぇ、まぁ、その。色々と思うところがあったのは確かですけど。えへへ……」

 そうかと思えば、すぐに可愛らしくはにかんで見せる。  やっぱり、変わったのは私だけじゃなかった。  トレーナーさんも皆口さんも、響子がアイドルとしてメキメキと成長しているのを、確かに感じ取っているんだ。

 出会ったばかりの頃も、響子はよく笑う子ではあった。  ただ本人も言っていた通り、それはあくまで周囲を笑顔にするためのもの。  五十嵐響子という存在に、予め備え付けられた笑顔だったのだ。  もちろん、以前までが楽しくなかったというわけではないだろうけど。  誰かの笑顔を貰うためじゃなく、自分が楽しいという気持ちを強く持って笑うようになってからは。  一人の女の子としてではなく、アイドルとしての五十嵐響子が、どんどん磨かれているのかもしれない。

「渋谷さんはどう? 中村くんのお城の中だけじゃわからないこと、たくさんあったんじゃないの?」 「そうだね。ここに来てからは、色々と新鮮だよ」 「まぁ、アイドル渋谷凛の技量に関してはそんなに心配してないわ。何か変化があるにしても、それを自分で噛み砕いて、これからのアイドル人生に活かすだけの経験もあるでしょうし。うちのかわいい織姫さまをこれからもよろしく、ってことで」 「はぁ……」

 なんだか私には随分適当な気がするけど、まぁ信頼されてるのは悪くないかな。  これまでの積み上げがある私よりも、響子のフォローを優先的に、というのは私も同意見だし。

「さて、聖ちゃん。ちょっと早いけど、今日はもう上がってもらって構わないわ。この子たちには今日サプライズイベントを用意してあるから、レッスンはここでおしまい。細かい報告は明日以降聞かせてもらうとして、聖ちゃんもたまにはゆっくり休んで」 「そうですか、わかりました。渋谷、五十嵐、そういうことだ。何かはわからないが、頑張るんだぞ」 「まぁ、またよくわからないことなんだろうけど。今日は、ありがとうございました」 「ありがとうございましたっ!」

 トレーナーさんが音楽室から出て行くと、皆口さんはまた私たちに向き直って、意気揚々と今日のスケジュールを説明し始める。

「さぁ、みんなお待ちかね! サプライズの内容を説明するわよ~!」 「……何でそんなに楽しそうなんですか」 「私たちの方が、ちょっと引き気味ではあるよね」 「何よぅ。もっと楽しみなさいよね。そしてその反応で、私を楽しませなさいっ!」

 そんな無茶な……。  わりと小柄な体格なのに、彼女のバイタリティーは一体どこから沸いてくるのだろう。  とりあえずここは、話を合わせておいた方が良いかもしれない。

「で、そのサプライズの内容って何なんです?」

 さすが響子。  私の空気を察してか、先に話を進める役を買って出てくれたのは素直にありがたい。

「聞いて驚きなさい! 『ドキッ! アイドルだらけの水着撮影@月海町!! ポロりも』」 「ないからっ」 「さっきからノリが悪いなぁ。そんなんだとこれから先、この世界でやっていけないわよ?」

 不満げな皆口さんを他所に私たちは、

「一体いつの時代の悪徳プロデューサーですか、それ」 「八十年代くらいのノリなんじゃない? 懐かし番組みたいなので、よくあるよね」 「あっ、私も見たことある。でも私たちゼロ年代生まれだし、生まれるより二十年も前のことなんて……」 「さすがにイマイチピンと来ないよね」

 ついつい好き勝手な感想を並べ立てていく。

「……あなたたち、業界の偉~い人のゴキゲンを損ねるとどうなるか、今この場で教えてあげた方がいいのかなぁ?」 「な、なんでもないですっ! なんでも……。ね、凛ちゃん!?」 「そ、そうだね。なんでもない……です」

 な、なんだろう今の。  どす黒いオーラのようなものが、確かに皆口さんの背後に立ち上って見えたような……。

「ふぅ。まぁいいわ。とにかく今日は、近くの浜辺を貸し切ってPVを撮るの。といっても、基本的に細かい縛りはなし。あなたたちの好きなようにやって構わないわ」 「え? それってつまり……」 「そ。引き上げる時間になったらこっちで声をかけるから、それまではカメラに映せる範囲内で、好きに遊んでていいってこと」 「聞いた凛ちゃんっ!? 海だって!」 「う、うん」

 水着撮影、か。  スタジオでグラビアの撮影をしたことはあるけど、実際に海に出て映像を撮られるのは私も初めてだ。  響子は響子で、すっかり目をきらきら輝かせて舞い上がってるし。  上手く、やれるかな。  でも、好きに遊んでていいんだよね……?

「おーい、まだ続きがあるんだけど。今日の撮影、せっかく海なのに二人だけっていうのも寂しいし、うちの部署からもう二人、同級生役のアイドルを増員することにしたから。そこのところも、よろしくね~」 「えっ……?」 「本当ですかっ!?」

 思いがけない皆口さんの言葉。  急遽増員ってことは、響子以外の、それも今日初めて会うアイドルと一緒に……ってこと?  久しぶりに慣れたアイドルと仕事ができる響子の喜びようと反比例して、私のテンションは急速に下降線を辿っていった。  やっと響子と上手くやれるようになってきたのに、また新しい子と、それも一日で上手くやらなきゃいけないなんて。

「凛ちゃん、どうかした?」 「あ、えっと、その……」

 不思議そうに、私の――おそらくは不安げな表情を覗き込みながら、響子はさっきまで輝いていた目をぱちくりさせている。

「新しい子と一緒にやるの、少し、不安っていうか……。私、自分のユニット以外の子と活動するの、響子が初めてだったし」 「そ、そうだったの!?」 「うん……」

 驚きの表情を浮かべる響子。  一度漏れ出た不安は、留まることを知らずに胸から溢れ出す。

「私、愛想もないし人に気も遣えないからさ。このユニットのことだって、本当は最初結構渋っちゃって。あ、でも、今はそんなに悪くないし、響子が初めてペアを組んだ相手で、本当に良かったって思ってる」 「そんなことないっ! 凛ちゃんすごくかっこいいし、優しいし、他の子とやったって、きっと上手くいくよっ!」

 一生懸命庇ってくれてる響子には悪いけど、正直他のアイドルとのコミュニケーションに関しては、未だに全く自信が持てない。  子供たちみたいに年下ならともかく、同年代の子は、きっと――。

「それは……それは、きっと響子が特別だったんだよ」

 弱気の真っ只中で、不意に口をついて飛び出た言葉に自分でもハッとさせられた。  が、一度出てしまったそれは、もう胸の中に戻ってくれたりはしない。

「と、特別……? 私が、凛ちゃんの……」

 呆然とした表情でそう呟いたかと思うと、響子は見る見る頬を赤く染めて、ついに耳まで真っ赤にしてしまった。  わ、私そんなに恥ずかしいこと言ったかな……?  確かに言った瞬間は、自分でもドキッとしたけれど、でも言ったことそのものに嘘はないつもりだし……。  ていうか今の響子、女の私から見てもものすごくいじらしくて、可愛らしくて、何ていうか、その、彼女の中に吸い込まれてしまいそうな――。

「あ、あのさ響子。そんなに恥ずかしそうにされると、なんだかこっちまで変な気分になるっていうか」

「あぁっ、ごめんねっ! 私今、すごく変な顔してたかも……」

「えー? 今二人とも、すごくいい顔してたのにー」

 びっくりして横を見ると、そこには"満面の笑み"を浮かべた皆口さんが、まじまじと私たち二人を眺めまわしていた。

「いやぁ、朝からいいもの見せてもらったなぁ! 今の二人だけの世界に免じて、さっきの失言はチャラってことにしてあげる♪」

 ますます真っ赤になる私と響子。  確かここに来たばかりのときも、こんなことがあったような……!

「まぁ、そんなに心配しなくても大丈夫。一応コミュ力高めの子は選んでおいたから、響子も渋谷さんに上手く橋渡ししてあげてね」

 ちゃんとお膳立てをしてくれてるなら、すぐにそう言ってくれればよかったのに!  そうすれば、情けないところも、恥ずかしいところも見せずに済んだだろう。  もしかして、また私たち嵌められちゃったのかな……。

「わかりました。凛ちゃん、うちの部署の子はみんないい子ばっかりだから、安心してねっ」 「……うん、わかった」

 友達の友達ってことなら、きっと少しはハードルが下がるだろうし、不安は不安だけど、後は響子に任せてなるようになるしかない、か。

「ということで、一人は今もう音楽室の外で待ってもらってるから、早速入ってもらうわね。おーい! 入ってきていいよー!」 「えぇっ! 私まだ心の準備できてないっ!」

 慌てる私を後目に、音楽室のドアは控えめなガラガラという音を立てながら、緩やかに横へとスライドしていく。

「おはようございま~す。しばらくぶり、響子ちゃんっ」

 ほんわかした声と共に現れたのは、肩にかかるくらいの栗色の髪に、花の髪飾りをつけた、可愛らしい女の子。  この子、見たことある。  確か前、お菓子を作る番組に出てたような……。

「かな子ちゃんっ! 久しぶりっ!!」

 かな子と呼ばれた女の子の元へ駆けていく響子の姿をぼんやり眺めていると、後ろから突然腰をポンと叩かれる。

「ほら、行って挨拶する。かな子はあれでもあなたより一つ年上。芸歴だって、実は渋谷さんより長いんだからね」 「そ、そうなんだ」

 皆口さんの後押しを受けて、入口で再会を喜ぶ二人の元へ、おずおずと歩いていく。

「あ、あの。初めまして。私――」 「ニューカミングレースの渋谷凛ちゃん、ですよね? はじめましてっ。私、プレイアデスの三村かな子です。今日は一日、よろしくね♪」 「よ、よろしく……」

 うっ。挨拶、上手く出来なかった。  いつもはすんなり、「よろしく」って言えるのに。  やっぱり仕事のスイッチが入りきってないときだと、何か勝手が違う気がする。  考えてみれば、普段誰かのところに挨拶に行く時って、いつもなんだかんだでプロデューサーも一緒だったし……。

「凛ちゃん、かな子ちゃんはね、お菓子を作るのがとっても上手なんだよ」 「そうなんだ。料理……上手なんだね」 「響子ちゃんほどじゃないよ~。あっ、そうだ! これ、昨日作ってみたんだ。良かったら、食べてみて♪」

 差し出された柔らかそうな手のひらの上には、小さな青いラッピングが、ちょこんと乗せられている。

「あ、ありがとう」

 袋を縛っているささやかな金色のリボンを解くと、ふわっと微かなチョコレートの風味が漂ってくる。  ひとつ取り出してみると、中身は花形にくり抜かれた、一口サイズのチョコクッキーだった。

「それじゃ、早速いただくね」 「うんっ、どうぞ♪」

 さくっ

 そんな感触と共に、口の中にほんのりと甘いチョコの味が広がっていく。  不思議……。  このクッキー、飛び抜けて手が込んでいるようにも思えないし、材料だってきっと特別なものは何も使っていない。  なのにも関わらず、作った人の素朴な温かさみたいなものが、ぎゅっと詰まってる感じがする。  お菓子を作るのが大好きな女の子の作ったお菓子。  響子の家庭的なお菓子とは、また一味違った美味しさだった。

「うん。これ、美味しいよ。ありがとう、えっと……」 「かな子でいいよ、凛ちゃん」 「わかった、ありがとうかな子……ちゃん」 「ちゃん、もつけなくて大丈夫だよ~。今日はよろしくねっ」 「うん……。それじゃ、よろしくね。かな子」

 身の回り品を持って、皆口さんの愛車に乗り込んだ私たち三人は、合宿所から車で十五分ほどの浜辺へと向かっていた。  助手席にかな子。その後ろに響子、さらにその隣に私という配置で、今は町から海へと出るまでの道を、快調に飛ばしている真っ最中。  うちのプロデューサーの車と違って、この可愛らしい外車の乗り心地はすこぶる快適そのものだ。

「向こうでは他のスタッフが、朝から先乗りで準備してくれてるからね。わかってると思うけど、着いたらちゃんと挨拶すること。いい?」 「は~いっ♪」

 同じ部署の慣れた子たちと、久々に一緒に仕事ができるというのもあるのだろう。  合宿所から響子のテンションは、ずっと上がりっぱなしだった。  運転席の皆口さんも、それがわかっているから響子を軽く窘めたのだろうけれど、この様子じゃどうやらあまり効果はなさそうだ。  窓の外で移り変わる緑の景色を眺めながら、

「そういえば、もう一人の子はどうしたの? 確かさっき、二人増員って言ってたけど」

 と、皆口さんに訊ねてみる。

「あぁ。あの子は千葉に住んでる子だから、直接現地に来る手筈になってるの。かな子は今日の朝早くに、東京まで私が迎えに行ったんだけどね」 「来る途中に凛ちゃんと響子ちゃんのお話、色々聞いたんだ。町の人とも仲良くなって、カレーをごちそうしたりしたって!」 「そうなのっ! 凛ちゃんも、玉ねぎいっぱい炒めてくれたよねっ」 「ちょっと響子、料理の話はあんまりしなくていいから……。それより、もう一人の子ってどんな子なの?」

 かな子とは上手く打ち解けられた……というか、さっきのはほとんどかな子のおかげだったと言っていい。  これから会うもう一人の子と、上手くやれるだろうか。  自分でもわかるくらいに、車の中で私はそわそわし続けていた。

「えー、今言っちゃったら面白くないじゃなーい。神谷くんとこの岡崎さんみたいな子ならともかく、普通に面白い子だから大丈夫だってば」 「皆口さん。凛ちゃんも気になってるみたいですし、教えてあげてもいいんじゃないですか?」

 助手席から優しくフォローしてくれるかな子だったが、

「ダメよかな子。もし教えたら、また一週間おやつ抜きの刑にするからね」 「そ、そんなぁ~!? ごめんね、凛ちゃん……」

 申し訳なさそうに眉をハの字にしながら、私の方を振り返るかな子。  こうなってくると、『かな子にとってお菓子一週間分は、私のメンタルよりも大事なものだった』という事実の方が、胸に刺さってくるものがあるね……。

「この道を右に曲がると……ほら、見えたわよ。月海の海」 「わぁ~っ、綺麗~!」 「ホントだ、地平線までずっと真っ青……」 「大きな入道雲! アイスクリームみた~いっ!」

 左手に広がる一面の空と海を前にして賑わう車内。  分厚い入道雲と青い空、波打つ海と砂浜のコントラストが美しい。  こんなところを貸し切って遊べるなんて。  ……いやいや、今日のこれだって、ちゃんとした仕事の一つなんだ。  やるべきことは、ちゃんとやらないと。

「今日は丸ごと貸し切ってるから、このまま車で砂浜まで降りちゃうわね。もう五分くらい走ったら着くから、しっかり現場のチェックしておくようにっ」 「すご~いっ! 見て見て凛ちゃん! 波打ち際がこんなに近いよっ!」 「せっかくだし、写真撮ろうか。ほら響子、ピースピース」 「ぴーっす♪ 海、来ちゃいました~!」

 しゃららん。

 ポーチから取り出した青いカメラで、可愛らしい笑顔を惜しみなく振りまく彼女を撮影していく。  車の中から眺める波打ち際は、この先ずっとずっと、どこまでも続いていくかのようで。  時折やってくる大きな波は、太陽の光を反射してキラキラと光り輝いては、優しい水飛沫を上げるのだった。

「さっ、ここで降りるわよ~。おっ、さすがね。機材の設営もバッチリじゃない。みんなご苦労様ー!」 「おはようございまーすっ! 今日はよろしくお願いしまーす!」 「お願いしま~すっ!」

 ふぅ、到着か。  響子とかな子の挨拶に倣って、私も依然作業中のスタッフさんたちにぺこりと頭を下げる。  ……よし、やっぱり仕事は仕事。  しっかりやらないとダメだよね。  今日も、気合入れて頑張ろう。

「あら~! あっちの機材も完璧!」

 あれ、まだ何かあるのかな?  随分ご機嫌そうな皆口さんの視線の先を見ると……。

「あの。もしかして"あっちの機材"って」 「そう、あれよ?」 「はぁ……」

 思わずため息が漏れ出てしまう。  それもそのはず、そこにあったのは、カラフルなビーチパラソルと立派な白いビーチチェア。  ご丁寧に、その横には小さなテーブルとお酒におつまみまで。

「よーし、ちゃんと挨拶もしたし……海だーーーっ!!!」 「やっほぉーーーっ♪」

 他の二人は既に海に向かって走り出し、靴を脱ぎ捨て波打ち際で冷たい海水を足に浴びている。  いくらなんでも、みんなちょっと気持ちが緩み過ぎなんじゃ……。  皆口さんはというと、いつの間にか車のトランクを開けて、いくつかの紙袋を取り出していた。

「それ、何?」 「ふっふっふ、まだナイショ」

 ……正直嫌な予感しかしないんだけど、大丈夫なのかなこれ。

「あれあれ? 渋谷さんは、何か不満でもあるのかな?」 「別に。仕事は仕事で、きっちりやりたいなと思ってるだけ」

 その言葉を待っていた、と言わんばかりの表情をする皆口さん。  まずい。ここ二週間の傾向から察するに、これは上手く誘導されたときのパターンな気がする。

「そう。ならちょうどいいわ。それなら早速、もう一人の先輩アイドルのところへ挨拶に行きましょう。向こうにある集会用テントが臨時の控室になってるんだけど、あの子もその中で私たちの到着を待ってるはずだから」 「響子たちは?」 「どうせ普段から顔合わせてるんだし、あの子たちは後ででも構わないわ。ということで、渋谷さんは一人で挨拶に行ってきなさい。まぁ、一応私も後ろからついてはいくけど」 「……わかった、そうする」

 はぁ、やっぱりそうだった。  まぁ、自分で言い出したことな以上、きっちりやるしかないか。

 数十メートル先の、白い幕のかかった大きなテントに向かって歩いている最中、色んなことが頭の中を駆け巡っていった。  一体どんな子なんだろう。  私の知っている子かな、それとも知らない子だったらどうしよう。  知らなかったら、一体どんな風に話しかければいいんだろう。  響子と一緒に、私も少しは変わり始めることができた気がしていたのに、いざ一人にされるとまだ全然ダメだ。  あぁ、そんなことを言ってる間にもうテントの目の前まで来てしまった。  呼吸を整えていると後ろから皆口さんが、

「渋谷さん。中に入るときはこう言いなさい。『こんにちは。今日一緒に撮影させていただく者ですが、挨拶に伺わせていただきました』って」

 と、にこやかな笑顔でアドバイスをくれる。

「なるほど、やっぱり礼儀は大事だよね。そうするよ」

 少し間を置いてからテントの中に向かって、

「こんにちは。今日一緒に撮影させていただく者ですが、挨拶に伺わせていただきました」

 するとすぐに中から、

「あぁ! どうぞー!」

 と、大きな返事が聞こえてくる。  声に従ってテントの幕をめくり中へ入ると、そこは四つに仕切られた小さなスペースがあった。  これは、私たちが着替えるためのものだろうか。  それ以外の広い場所には、大きな青いビニールシートが敷いてあって、その上で何人かが休めるようになっている。  そしてその隅っこの方には、何やら大きな毛の塊が……。  いや違う。これ女の子の髪の毛だ。  それも、かなり長くてもこもこしている。  今はちょうどテントの隅っこで胡坐をかきながら、何やら手元に集中しているようだ。  こちらに背を向けているため、私の姿はまだ見えていないらしい。

「悪い悪い、ちょっとだけ待っててくれ! 今ちょうどスマホのゲームやってるんだ! 知ってるか? 346のアイドルの曲が全部入ってる音ゲー!」 「うん、知って……ます。事務所で紗南がやってたような」 「ほっ、ふっ……あぁ、またミスっちゃったよ! 『さよならメモリーズ』のマスター、これ絶対フルコンさせる気ないだろぉ!?」 「えっと、その」 「名曲だよなぁ、『さよならメモリーズ』。アンタもアイドルなら、ニューカミングレースくらいは知ってるだろ? かっこいいよなぁ、渋谷凛!」 「ど、どうも」 「んん? 何でお礼言ってんだ? あたしもまだ直接会ったことなくてさぁ。同じ会社にいるってのに、見かけたことすら一度もないなんて、おかしいと思わないか?」 「まぁ、確かにうちの部署は他の部署とあまり接点ないし……」 「いやいや、アンタの部署の話は今関係ないだろ? あたしは渋谷凛の話をしてるんだよ」 「一応私も、渋谷凛の話をしてるんだけどな」 「あたし、ずっと渋谷凛のファンなんだ。こんなこと言うのも恥ずかしいけどさ、たまに夢まで見るんだよ。あの渋谷凛、北条加蓮と一緒に歌って、踊って、アイドルやってる夢!」 「それは何ていうか、ありがとう。……私が言うのも何だけど、随分大きな夢なんだね」 「だよなぁ! 朝起きたとき、自分でもどんな夢だって思うくらいだよ! 渋谷凛と北条加蓮って言ったら、346でも屈指の超売れっ子だし、あたしなんかが一緒に歌えっこないよなぁ! はははっ!」

 この子、なんだか色々とすごく楽しそうだけど、どうしよう。  色んな子との、色んな出会いのパターンを考えてたけど、これは正直予想外だった。  ……とりあえず前髪直して、少しでもかっこよく見えるようにしとこう。

「よしっ、終わった! 悪かったなずっと後ろ向いたまんまで! あたしはプレイアデスの神谷――えっ……?」

 ようやく振り返ったもこもこ髪の女の子は、私を見た瞬間すっとんきょうな声を出したかと思うと、その場で氷漬けになったかの如く固まってしまった。  あーあ、どうしようこの空気……。

「やっほー奈緒。今日も元気そうで何より。うんうん」 「ぷ、プロデューサーさん……!? あ、あはは。なんだ、プロデューサーさんがいるってことは、またいつもの冗談かぁ。いくらあたしが騙されやすいからって、今度ばかりは騙されたりしないからな……?」 「ひどいなぁ。私これでも、あなたたちの夢を叶えるのも仕事のうちなのよ? ってことで夢、叶えたから」 「なんだその軽さはっ!? ここにいるのは誰だ!? 人形か!? あるいはそっくりさんか!? それともまさか……。まさか、本当に本物だったりしてしまうのか……!?」

 案の定半狂乱になっちゃったよ。  これ、私も乗った方がいいのかな。

「えーっと。夢の中の私たち、どんな風にお互いのこと呼んでた?」 「よ、呼び方?」 「うん」 「た、確かすごくフレンドリーに、『奈緒』『凛』って……」 「なるほど。じゃあ、お互いそれでいいよね。……はじめまして奈緒。ニューカミングレースの渋谷凛です。今日のお仕事、よろしくね」 「う、う、う……ウソだぁーーーーーっ!!!」

 結局あの後、奈緒のテンションを落ち着けるまでにしばらく時間がかかってしまった。  その間サインはねだられるわ、連絡先は聞かれるわ、凄まじい猛攻撃を浴びせかけられてしまった。  そのわりに、奈緒の私へのノリはフレンドリーそのもので、まるでアイドルとファンという距離を感じさせない。  ……もしかして奈緒、夢と現実の区別が未だにイマイチついていないんじゃないかな。  まぁ、その方が私としてもやりやすいから、それは別にいいんだけど。

「それにしても皆口さん、奈緒にも私が来ること教えてなかったんだね」 「だって、その場で知った方が面白いじゃない。ぷっ、渋谷さん見たときの奈緒の顔ったら……!」 「そんなに笑うことないだろぉ!? 凛もほら、何とか言ってやれって!」 「まぁ、ね。この二週間、奈緒のプロデューサーさんには色々としてやられてるよ」 「やだなぁ、別に意地悪したいだけってわけじゃないのよ? 奈緒に前もって教えたら、前日緊張で眠れなくなりそうじゃない。逆にかな子には時間をあげた方が、ちゃんと色々準備してくれると思ったから知らせておいたし」 「まぁ、確かにそれはそうだけどさぁ……!」

 意外に的確な答えが返ってきたせいで、反撃の気勢を削がれる奈緒。  うちのプロデューサーもそうだけど、大人ってこういうときだけはしっかり理屈を固めてあるんだよね。

「響子にかな子ーー!! 着替えて撮影始めるわよーー!! こっちに戻ってきなさーいっ!」 「はーーいっ!!」

 皆口さんが百メートルほど先にいる響子とかな子に声をかけると、二人は駆け足で私たちのいるテントの前までやってくる。

「久しぶり奈緒ちゃん! 今日呼ばれたもう一人って、奈緒ちゃんだったんですね!」 「おぉー、響子久々じゃんか! まさか響子と一緒に仕事してるアイドルが、あの渋谷凛だなんて思わなかったよ」 「えへへ。まぁその、色々ありまして」 「はいはい。長くなりそうな話は後にするように。じゃ、全員これに着替えて」

 そう言うと皆口さんは、私たち一人一人に、さっき車のトランクから取り出した袋を手渡してくれる。

「なんですか、これ?」 「いい質問ねかな子。それは、あなたたちが今日着る衣装よ」 「水着ってことですねっ。可愛いのだといいなぁ!」 「大丈夫よ。私が見繕ったんだもの。間違いないわ。それじゃ、全員テントの中で着替えてくるように!」

 着替えが終わってテントの前に出てきた私を待ち受けていたのは、皆口さんによる簡単な衣装チェックだった。

「あら~、いいじゃない。コンセプト通り、『学校一の美少女』って感じ。さすがよ、渋谷さん」 「あ、ありがとう」

 上下黒の水着に、白のホットパンツ。  髪には青い花飾り。  学校一……かどうかはともかく。  動きやすさとシックさがしっかり両立されているこのスタイルは、実は私も一目見た瞬間、結構気に入ってしまったのだ。  そして腰にはもちろん、いつもの青いカメラ。  どうやら防水仕様らしく、海の中に入れても基本的には問題ないとのことらしい。  撮影は行われるものの、私たち自身で撮る写真も忘れてはいけない大事な要素のひとつだ。

「他の三人は?」 「まだ着替えてるんじゃない? まぁ、直に全員揃うと思うけど」 「お待たせしました~♪」

 元気な声と共に現れたのは、響子だった。  クリーム色のトップスと、スカートタイプのボトムスに、それぞれ可愛らしいピンクのラインが入っている。  サイドテールの結び目を見ると、そこには赤い花飾りが。  もしかして、私と対のデザインなのかな?  上には赤いパーカーを羽織っていて、どうやらカメラはそのポケットの中に入っているようだ。

「えへへ。凛ちゃん、この水着どう?」 「うん。良く似合ってると思うよ。女の子らしくて、すごく可愛いし」 「そういう凛ちゃんだって! 可愛いだけじゃなくて、かっこいい雰囲気もあるの、うらやましいなぁ」 「響子もオーケーね。『初めての海デート』感が実にいいわ! これならこの方面への露出も、もっと考えてもいいかもしれないなぁ……」

 真剣な表情で顎に手を当てて、水着の響子を品定めする皆口さん。  本当に色々考えてるのか、それともいつものスケベ心なのか……。

「あっ、二人とももう着替え終わってたんだ~。ごめんね、ちょっと着るのに手間取っちゃって」 「ううん、そんなに待って……うわ、かな子すごい。結構派手めだね」 「に、似合ってるといいんだけど……」

 かな子の水着はと言うと、トップスの種類こそ私や響子と同じホルターネック――首で紐を結ぶタイプの水着のことだ――ではあるものの、上下ともに真っ赤な配色となっていた。  そのためスカートのひらひらすらも、響子の可愛らしいそれとは違って、どこか煽情的にさえ見える。

「うーん、感じは悪くないわね。『普段おっとりしているあの子が、海ではいつもと違う解放的な雰囲気に!』って狙いは、やはり外してなかったか。そうね、あとは……」

 そう言うや否や、皆口さんは突然かな子のお腹周りをずずいと両手で一周、そして脇腹の肉をぷにぷにと摘み出した。

「ひゃあぁっ!?」 「よし、まぁ及第点ってところね。最低限絞れてはいるわ。お菓子一週間我慢、ちゃんとやり遂げたようね」 「あ、ありがとうございます~……」

 顔まで真っ赤にしながら、やっとやっとでお礼の言葉を絞り出す。  そうか、今日のためにお菓子を我慢して……。  かな子の場合は出るところが出ている分、スタイルの維持も難しいのかもしれない。  でも、私のメンタルよりおやつを取ったのは、やっぱりしばらく忘れられそうにはないな……。

「あれ、奈緒ちゃんはまだですか?」 「そういえば遅いね。着替えるだけで、そんなに手間取ることないはずだけど……」 「あっ、出てきたよっ」 「おぉっ、やはり私の目に狂いはなかったようね。奈緒! 今日一番似合ってるわよ!」 「う、うぅっ……!」

 うめき声のした方を見ると、そのあられもない姿はすぐに私の目にも入ってきた。  恥ずかしそうに胸元と下腹部を手で隠しながら、もじもじとこちらへ歩いてくる奈緒。  こ、これって……!

「プロデューサーさんっ! なんなんだよこの競泳水着はぁっ! もしかして他のみんなもこうなのかな、って少しでも思ってたあたしがバカだったよっ! みんな全っ然普通に可愛い水着じゃんかーっ!!」 「素晴らしい、素晴らしいわ! 『ニッチな需要を吸い上げる』というコンセプト通りよっ!」 「あたしに変なファンをつけようとするなーーっ!!」

 恥ずかしさと怒りで顔を茹蛸みたいに真っ赤にした奈緒は、太くてかわいい眉毛を目一杯釣り上げて、必死に水着の再考をしてもらおうと食い下がる。  しかし無慈悲にも、その提案に対して皆口さんの首は、決して縦に振られることはなかった。  だめだ、もう我慢できないっ。

「ぷっ、あはははははっ!」 「なんだよ凛まで! そんなに笑うことないだろぉ!?」 「いや、今の奈緒すごく可愛い。最高だよ」 「可愛い!? 背中スカスカ、そのくせやたら肌に食い込んでくる"これ"がかっ!?」 「うん、女の子らしく胸のあたり隠して顔真っ赤にしてるの、すごくいいよ。何なら私たちより全然胸隠れてるのに……ぷっ、ダメ。笑い止まんない……!」

 あぁ、おかしい。  こんなに笑ったのいつぶりだろう。  ホント、涙が出てくるくらい面白いなこの子は。

「……凛ちゃん」 「はぁー……ん? 響子、どうかした?」 「奈緒ちゃんのこと、"奈緒"って呼ぶんだね」 「え?」 「奈緒ちゃんも、もう凛ちゃんのこと"凛"って」 「ん? あぁ、さっき何となく話の流れで……」 「それが、どうかした?」

 きょとんとした顔の奈緒と私を見て、響子の頬はなぜかますます膨れていく。  次の瞬間、突然手を掴まれたかと思うと、そのままの勢いで強く引っ張られてしまう。

「あっ、おい!」 「どうしたの、響子ちゃんっ!」

 奈緒とかな子の制止も聞かず、響子は私の手を引いて砂浜を走り出していく――。

 思えばアイドルになってから、こんな場所でこんなことをする余裕なんて、どこにもなかった。  別に、誰かに強制されたわけじゃない。  すべては自分の意志だった。  あの人に追いつくために、追い越すために。  そのことばかりを考えて、毎日毎日自分を鍛えて。  強さの先に何があるのかもわからないまま、ただただがむしゃらに強くなり続けて。  私にとってはそれが一番楽しい、充実した日々だったんだ。

 でも、今ここにあるものは、それとは全く別のもの。  真夏の砂浜を、熱く眩しく照りつける太陽。  鼻をくすぐる潮の香りに、果てが見えないほど大きく広い海。  どこまでも続く青い空、大きく膨らんだ白い雲。  そして手のひらに感じる、温かくて柔らかい感触が、無我夢中で私の手を引いていく。  色々とよくわからないことだらけだけど。

 きっとこれが、青春。  今まで私が、ずっと歌い続けてきたものなのかもしれない。

 

第七話 了

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