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第十七話

 キュッキュッ。

 

 トレーニングシューズと床が擦れあって、小気味いい靴音を鳴らします。昨日散々聞いた音だけど、今日の音は昨日よりもっと軽やか。
 私は体育館の舞台の上、軽くジャンプしながら心と体に火を入れていきます。

 

 雨粒が激しく窓を打ち付け、ごうごうと風は荒れ狂う夜。
 まさか本当に台風がやってくるなんて思いませんでした。首都圏に台風が直撃なんて滅多にないはずなのに。私が初めて過ごす関東の夏がこんな大荒れになるとは……。私って台風女? 雨女をすっとばし、そんな不名誉な称号はイヤだなぁ。

 

「うん……」

 

 どうでもいい事を考えてましたが、ウォーミングアップのステップは完璧でした。
 考えなくても踊れるようになった証拠ですよ。
 えへへ、これもみんな凛ちゃんのおかげですね。

 

「あーあー♪」

 

 発声練習をすると、これまた私の声とは思えない大きな声が体育館に響きました。
 やっぱりすごい。三週間でここまで変わるなんて。
 今までいかに甘えたレッスンをしてきたのか分かっちゃいます。いや、決して手を抜いていたわけじゃないんですが……。こう、甘えさせてもらっていたというか。
 それにしても、昨晩あそこまで歌い込んじゃったし声が枯れてたらどうしようって心配していたけれど、全然杞憂に終わったみたい。
 実は寝起きは少し声が掠れていて、凛ちゃんやゆうくんたちと話してる時はドキドキだったんですよ? でもまぁ、誰も気づかなかったみたいだし、結果オーライ。

 

「よし、完璧っ」

 

 一通りおさらいをした私は、舞台の上で凛ちゃんを待ちます。シャワールームで別れてから三十分。そろそろ来てくれるはず。
 一番お気に入りのTシャツと、一番使いなれた短パン。
 プレイアデスのメンバーと一緒に買った履き慣れたトレーニングシューズ。
 髪の毛を結ぶシュシュは、上京前にお母さんにに買ってもらったものの一つ。
 いつもは赤とかピンクをつけてるんだけど、今日のチョイスは青。私の普段着は暖色系が多いので青って似合わないと思ってて、部屋着の時ぐらいしか寒色系のシュシュは組み合わせないんだけど。
 だけど、今日は青。
 それは、青いハイビスカスを私みたいって、凛ちゃんが言ってくれたから。
 寄り添ってくれてるみたいに優しい色だって、凛ちゃんが言ってくれたから。
 だから今日は青。
 やっぱり私って流されやすいのかな? 
 でもいいや、凛ちゃんになら流されても。

 

 ……だよね?

 

「来てくれて、ありがとう!」

 

 体育館の入り口、見慣れたジャージ姿で立つ凛ちゃんを見て、私は元気よく挨拶をしました。

 

「うん」

 

 そう言ってくれた、と思います。だって体育館の屋根と窓に叩きつける雨音が、凛ちゃんの声を掻き消してしまったから。
 彼女は少しだけ躊躇いながらも、舞台の前までゆっくり歩いてきます。私はそれを眺めながら、大きく深呼吸をしました。
 大丈夫、緊張も焦りも何もない。思考もびっくりするぐらいクリアな状態。
 ああ、毎回こんな状態でライブの望めたら怖いものなんてないのに。

 

「来たよ、響子。……見せたいものって何?」

 

 舞台下で凛ちゃんが私を見つめます。
 その瞳の奥は、やっぱり恐れと後悔で暗く沈んでいて。
 待ってて。私がその迷いを振り払ってあげるから。


「えーっとね」

 

 こほんと咳払いを一ついれ、私は大きく両手を広げます。

 

「凛ちゃんが心配しない五十嵐響子になるために、いっぱいいっぱーい練習したんです!」
「……え」
「だから、その成果を見てほしいなぁって!」
 

 私の言葉に凛ちゃんが訝しげな顔をしました。
 ふふ、きっと状況をよく掴めてないってやつですよね。

 

「そう……なんだ」
「うん、そうなんです! だから私のステージ、ちょっとだけ見ていてくれないかな?」
 

 凛ちゃんはコクリと小さく頷くと、その場に腰を下ろします。そして、消え入りそうなほど小さな拍手を私にしてくれました。

 

「それじゃ、いくね?」

 

 私は床に置いたスマホををタップします。
 瞬間、少し離れた場所にあるwifiスピーカーから流れ出すメロディー。
 私と凛ちゃんの、まだ名前もないユニットのためだけの歌。
 そのうちの一つ。そして、今の私の気持ちを代弁してくれる一曲。

 

『あなたもこの空の下、同じ日差しを』

 

 昨日、凛ちゃんが空の彼方に見ていたもの。
 それを想って私は――

 

『眩しいと目を細めて、くすぐる花風かすめ』

 

 凛ちゃんがどうしてアイドルになったのかを聞きました。
 それは、私が想像もしていなかった理由でした。
 私と凛ちゃんでは、アイドルになる動機が全然違うのはわかっていました。
 でも、いざ凛ちゃんの口からそれを直接聞いてしまうと。

 

 ――羨ましいなぁって。

 

 そう思えるほど、凛ちゃんのアイドルへの想いは真っすぐだったんです。
 やっぱり凛ちゃんは『物語』の主人公だよ。
 私、五十嵐響子にそんな道は歩けないもの。うん、私にはそんな情熱ありません。
 だから羨ましかったけど、妬ましくはありませんでした。
 それよりも、その素敵な歌姫の物語の登場人物に私も加われたことが嬉しくって。
 だってさ、そんな物語の主人公みたいな自慢の友達がね?
 私のために色んな事をしてくれたんですよ!
 私のために笑いかけてくれたんですよ!
 だからね?
 もう、これ以上望んじゃいけないんです。
 もう、満たされてなきゃいけないんです。
 

『生まれ変わっても、あなたを見つける』

 

 凛ちゃんはあの雲の向こうに、その夢を叶える為に走っていかなきゃ。

 

『雨が止んで、晴れるように』

 

 ほら、あなたのおかげで、こんなにも身体が動く。
 こんなにも声が伸びる。
 こんなにも想いが乗ってくれる。
 全部、凛ちゃんと一緒に過ごせたこの三週間があるから。

 

『あなたもこの空の下、同じ日差しを』

 

 この嵐は凛ちゃんの今の心と同じ。
 でもそれは一時の出来事。
 すぐに過ぎ去っていきます。。
 そう、この夏の出来事にように。

 

『眩しいと目を細め、くすぐる花風かすめ』

 

 私たちは双子の巫女と同じ。
 一緒に歌って踊れるのは一度だけなんです。
 あの食甚祭の日、その一回はもう使っちゃった。
 だからね。
 

 月の巫女はもう大丈夫。

 

 それを太陽の巫女に教えてあげなきゃいけないんです。
 それを伝えることが、今の私にできることなんだから。

 

『七色の世界を守り通すよ、臆病な私の胸で』

 

 そうして私の想いをのせた「花風」は終わりました。
 音楽が止まると、再び台風が体育館を震わせます。その音を聞きながら私は軽く息を整え、凛ちゃんに向かい笑いかけました。
 

「どうかな、凛ちゃん! うまくできてた!?」

 

 自分では完璧、とまでは言わないけど、九十点はあげたい出来。ううん、一夜漬けとしたらやっぱり満点でいいかも!?
 全部凛ちゃんのおかげ。
 そうして私はここまできたんだよって。それを伝えたくて。
 ただ、そう思ったんです。
 

 でも――。
 

「……響子、どういう……つもりなの?」

 

 凛ちゃんの口から零れた言葉は、私の想像とは違うものでした。
 あ、あれ?

 

「え、どういうつもりって……よく出来てなかっ」
「よく出来てたよ!」

 

 私の声を遮るように、凛ちゃんの叫びにも似た声が体育館に響きました。
 下を向いてるせいで凛ちゃんの顔は見えず、表情は全くわかりません。ただ、私は急に大きな声を出されたことにびっくりするだけ。

 

「ねぇ、響子……」

 

 やっと顔をあげてくれた凛ちゃん。
 でもその顔は、また私の知らない凛ちゃんでした。
 ううん、私の想像になかった凛ちゃんでした。
 ただ、小さな女の子がそこにいただけだったから。

 

「どうして……。どうして一人用の振り付けで踊ったの!? どうして一人でも踊れるようにしちゃったの!?」

 

 今にも泣き出しそうな凛ちゃんに私は戸惑います。
 ど、どうしてって言われても。
 そんなの凛ちゃんのためだからに決まってるのに。
 

「だ、だって私が一人でステージに上がれたら、凛ちゃんはなんの心配もなくサカマニに参加できるよ?」
「……っ」

 

 凛ちゃんの顔がどんどん歪んでいきます。
 どうしてそんな顔をするんですか? 
 私はただ、凛ちゃんの心配事の一つを取り除いただけなのに。
 あ、そっか。ひょっとして?

 

「あ、あの、凛ちゃん、一曲じゃ不安だったかな? 大丈夫だよ、他の曲もみんな一人で踊れるようにしたから」

 

 でも、私の言葉は虚しく空振り、凛ちゃんは首をフルフルと横に降ります。
 凛ちゃんは今にも崩れ落ちてしまいそうで、私は慌てて声をかけました。

 

「ご、ごめん、私ひょっとしておかしな事したかな!?」

 

 それでも彼女は首を横に降り続けます。
 わかんないよ凛ちゃん。一体何が言いたいの?

 

「響子は……さ」

 

 凛ちゃんは絞り出すように、本当に辛そうな声とともに私を見つめます。
 わかんないよ凛ちゃん、どうしてそんな悲しい顔をするの?

 

「私と一緒に……ライブ、やりたくない……の? どうして、一人で踊れるような……そんな振り付け考えちゃったの? どうして、何も……」
「え……」

 

 凛ちゃんは再び俯くと、自分を責めるような声で呟きました。

 

「今の私じゃ、相談する価値もないって事……なのかな」
「!」

 

 私は、舞台から飛び降りると凛ちゃんの元へと駆けつけます。
 そして、その手を握ろうとして……。

 

「だめ! 触らないで!」

 

 初めての、凛ちゃんからの拒絶。

 

「え? ……あれ?」

 

 私の頭の中は、まるで買ったばかりのノートのように真っ白になっていきます。

 

「だめだよ、響子……。わ、私、あなたに慰めてもらえるような子じゃない」

 

 凛ちゃんの潤んだ翡翠の瞳は、今にも零れ落ちそうな宝石のよう。私は状況を理解できないまま、ただその翠の吸い込まれそうになっていくだけ。

 

「……皆口さんの言うとおりだ。今の私に、響子の隣に並ぶ資格なんか……ないんだ」

 

 凛ちゃんの声は震えていて、無惨なビブラートがかかった歌声のよう。

 

「私を……ここに、月海に繋ぎ止めて、欲しかったんだ。響子に『ここに居て』って言って欲しかったんだ」

 

 え。
 え?

 

「凛ちゃん……?」
「……ダメ、やっぱりダメ。最低だ」

 

 悔しそうに、吐き捨てるように。
 自分自身を嘲笑うように。

 

「私、響子のせいにしようとしてるんだよ?」

 

 私は離れるように後ずさる凛ちゃん。
 一歩、二歩、三歩。

 

「自分で決められない答えを、響子に任せて、響子に頼って……」

 

 私の足は、まるで体育館の床に縫い付けられたかのように動かなくなり、離れていく凛ちゃんを追う事ができなくて。

 

「なのに……響子の出した答えが、私の望んでいた答えと違ったから」

 

 とうとう凛ちゃんの瞳から涙がポロリと一滴落ちました。

 

「だからあなたが悪いって。そう思ってしまったんだ……」

 

 彼女は乱暴に涙をぬぐうと、きびすを返し早歩きで出口へと向かいます。
 その後ろ姿は二日前の深夜に見た、子供が震えて眠っていたかのような凛ちゃんの背中と一緒。
 私は彼女が出ていくのを止められませんでした。

 

 ――凛ちゃんが、私を頼っていた?

 

 

 

 

 凛ちゃんは、自分の夢を叶えるために、本当は私の面倒なんか見てる場合じゃないんです。
 高垣楓という346のトップスターを目指した凛ちゃん。
 この夏はそんな彼女のバカンスだったはず。チャンスさえあれば、すぐに自分の道へと還らなきゃいけないんです。
 それに私はもう十分すぎるほど面倒を見てもらいました。
 だから今は、彼女が本当にやりたいことを応援してあげたいんです。
 ううん、あげたかったんです。 


『どうして自分を月海に繋ぎ止めてくれなかったんだ』

 

 今の私は、広い体育館の真ん中、座り込んだまま動けません。
 瞳には、凛ちゃんの悲痛な顔が焼き付いていて。
 耳には、彼女の心の叫びがこだましていて。
 

「ひどいよ凛ちゃん……」

 

 私だって。
 私だって辛かったのに。
 あんなの楽しそうに、あんなに力強く、楓さんの事を語られたら、私だってこうするしかなかったじゃないですか。
 だったらもう、凛ちゃんが心置きなくサマカニに出場するできるように準備するぐらいしか、私にはできないじゃないですか。
 それなのに。

 

「私だって、凛ちゃんと一緒にライブしたいよぉ……」

 

 だって、それが当たり前の事なんだもん。
 でも、でもね。

 

「それを……選ばせないような、そんな口ぶりだったじゃない! 凛ちゃん!」

 

 卑怯だ。
 凛ちゃん、それは卑怯だよ。
 こんな大事なこと。
 あなたにとって、こんなにも大事な夢の行方を、私に託すなんて。

 

「うっ、ぐ……ぐすっ、こんな……、今さら、えぐっ、本当は一緒に居てほしい、なんて、言えないじゃないですか……」

 

 塞き止められない嗚咽ととも、自分の間違ってしまった答えに対する後悔が涙とともに零れ落ちます。
 ううん、本当は間違っていない。私の選んだ答えは間違っていなかったのに。
 そうですよ、どうせ繋ぎ止めてほしいなら、しっかり言ってくれればよかったんです。だったら私、大喜びで一緒に頑張ろうって言えたのに!

 

「それを言わせないようにしておいて、でも言ってほしかったなんて! それを私に決めてほしかっただなんて!」

 

 床に叩きつけるように私は叫びます。
 狂ったように唸りをあげる風は、今の私の心そのもの。
 あはは……、凛ちゃんの心模様だけじゃなくて、私の気持ちをも代弁することになっちゃいましたね。

 でもこれで凛ちゃん、私に遠慮なくサマカニ出られるかな……?

 だって今の私の隣には立てないって、凛ちゃん言ってましたもんね。
 うん、だったら結果的に良かったですよね。
 凛ちゃんはサマカニへと出演して、私は一人でこの月海ライブを成功させる。万事可決じゃないですか。
 あとで、あの時は二人ともすごかったんだって笑い合ってさ。
 そう、笑いあって――

 

「いやだよぉ! 凛ちゃん隣にいてよぉ!」
 

 あれれ?
 なんで私こんな事言ってるんだろう。
 今の凛ちゃんに必要なことは、楓さんを追いかけることでしょ?
 私は凛ちゃんが最高のアイドルとして輝く姿を見たいんでしょ?

 

「いやだ、いやだ、いやだよぉ!」

 

 なのにどうして、こんなにも涙が止まらないんだろう。
 しっかりして五十嵐響子! あなたも、もう子供じゃないんだから!

 

「ヤダヤダヤダ! 凛ちゃんと一緒に誕生日迎えたいもん!」

 

 ああ、ダメ。心が勝手に一人歩きしちゃう。
 何が一番凛ちゃんのためになるのかなんて、私の心は考えてないんですね。
 なんて欲深いなんだろう。
 あんなにも色んな事で助けてもらったのに。
 あんなにも色んな事を教えてもらったのに。
 あんなにも楽しい時間を分かち合えたのに。
 ……まだ、私は物足りないんだ。

 

「もう!」

 

 立ち上がり、涙でグチャグチャな顔のまま走りはじめます。
 舞台袖にある階段も使わず、よじ登るように舞台に上がると、スマホを拾い上げ時間を確認。

 

「もう三十分も経ってる……っ」

 

 さっき一曲歌う前に見た時間から、すでに三十分が過ぎていました。
 凛ちゃんが体育館を出ていってから二十分近くも座り込んでいたんだ。
 LINKの画面を開き、どうメッセージを凛ちゃんに打とうか少し考え込みます。
 なんて言えばいいんだろう?
 ゆっくり話し合おう、とか?
 などと考え込んでいると、また私の心が自由行動を始め、指先は勝手にメッセージを打ち込んでいきます。お願いだから脳より先に動かないで!
 

<逃げないで凛ちゃん!>

 

 それは普段の私なら絶対に言わないセリフ。
 なのに心の中の私は、これを凛ちゃんに言わなければいけないって思えちゃったんでしょうね。
 あとから追いつく思考がひどくもどかしい。そんな激情のまま行動する私に、自分自身も驚きが隠せません。
 でも、このメッセージは正しい。
 凛ちゃんは逃げている。
 出さなくちゃいけない、自分の想いから逃げているんだ。
 だから、私を頼ってしまったんだ。
 こんな私を。

 

「……ぐすっ、返ってこない」

 

 ずずずと鼻をすすります。鼻水めんどくさいなぁ! ……じゃなくて、やっぱり凛ちゃん返事くれない。
 私はポケットにスマホをツッコミ、舞台からジャンプして飛び降ります。

 

「ととっ!」

 

 ちょっと転びそうになりましたが、大丈夫持ちこたえました。
 でも凛ちゃん、あなたがいないと私また転んじゃうかもよ?
 今は転ばなかったけど、転んだらどうするの? 転ばないように気を付けることを覚えたことと、実際に転ばないことは全然違うんだからね!
 

「私が、一人でライブやりたいなんて、そんなこと考えるわけないじゃないですかー!」

 

 精一杯強がって、あなたが答えを出せるようにしたのに!

 

「凛ちゃんの馬鹿っ!」

 

 叫びながら凛ちゃんの後を追い、走りはじめます。
 凛ちゃんの出ていったドアを開けると、強い雨が私を叩きつけるように降り注ぎます。
 ほんの一時間前までは大したことなかったのに。

 

「もう!」

 

 悲しいやら、悔しいやら、虚しいやら、腹立たしいやら。
 よくわからなくなったしまった感情を声に乗せ、体育館と校舎を繋ぐ屋外の渡り廊下を駆け抜けます。

 

「……っ!」

 

 たったの十メートル近くなのにビショビショ。
 だけど私はそんな濡れた身体を拭くこともせず、暗い校舎に向かって叫びます。

 

「どこなの凛ちゃん!」

 

 返ってくるのは沈黙のみ。
 そうだよね、返事くれるわけなんてないよね。
 だから――

 

「絶対に見つけるんだから!」

 

 私は嵐の中の、暗くなった校舎を走り始めました。

 

 

 

*

 

 

「はぁはぁ……、ふぅ……」

 

 かれこれ三十分は校舎を走り回ったはずなのに、まだ凛ちゃんは見つかりません。
 凛ちゃんの性格なら、こんな嵐の夜に外出するとは思えません。校舎内にいるのは確実なんですが……。何しろ二人でかくれんぼをするにはこの校舎は広すぎて、
 教室や家庭科室、あと職員室。普段私たちが使っている部屋はあらかた見て回りました。音楽室や図書館などは、ちょっと離れた小屋に待機してくれている守衛さんから鍵を貸してもらわないと入れません。さすがにそこまでしてこれらの部屋に隠れるというのも考えにくいです。
 どこかで見落としてることがあるはず。
 いつも使ってるけど、今は使ってない所。
 そう、例えば今の状況、この台風の夜だけしか機能しないような部屋。
 部屋? そっか部屋じゃないんだ!

 

「あった、まだ行ってない場所……」

 

 台風で外に出られないそこは、今は行き止まりになっているはず。

 

「昇降口。プランター……のところだ」

 

 私は、息を整え歩き始めます。
 そうだ、今の凛ちゃんが頼るのは青いハイビスカス。

 

『青い方、響子みたいだね。とても、落ち着くし、側にいたくなる』

 

 あの時『側にいたくなる』って凛ちゃんはいいました。
 ……『いてほしい』じゃなくて、『いたくなる』。

 

 高森さんの誕生日会の時、私に『一緒に歌ってほしい』って。
 最初は『一緒にいるよ』だったのに。
 『一緒にいてほしい』というお願いになって。
 今は『一緒にいたい』って祈りになってる。

 

 どうして、あなたはそんな不器用なんですか?
 こんなにもちょっとづつ、本当にちょっとづつ心変わりを見せられても、私みたいな鈍感な子じゃ、すぐにはわかんないですよ。

 

 ゆっくりと歩きながら、頭の中で散らかっていた思考を一つにまとめます。

 

 ――今、私は何を言うべきか。

 

 そうして私は、目的の場所へとたどり着きました。

 

 蛍光灯が二本だけ申し訳程度についた昇降口。
 薄暗い下駄箱の陰に隠れるように……彼女はそこにいました。
 地面に直接座り込み、しぼんでしまったハイビスカスを眺めている凛ちゃん。
 あまりにも弱々しく、今にも消え入ってしまいそう。なのにまだ最後の力を振り絞って「近づかないで」と悲鳴をあげている背中。
 それでも私は踏み込みます。踏み込まなきゃいけないんです。

 

「凛ちゃん」

 

 私の呼びかけに凛ちゃんの背中がビクっと震えました。
 勿論、こちらを振り向くことはありません。だから私は一方的に話すだけ。この言葉が凛ちゃんに届くと信じて。
 

「私ね、凛ちゃんと一緒に歌って踊るの大好きだよ。……だけどね、私は凛ちゃんのことを止めません。行かないでとは言いません」

 

 けたたましく鳴り響く雨音は、まるで神様が私の声を凛ちゃんに届かないよう意地悪してるみたい。だからそんな運命に逆らうように、私は声のボリュームをだんだんと上げていきます。

 

「凛ちゃんがどうしてアイドルを始めたのか、どうしてアイドルを続けているのか。それを聞いちゃったんだもん。……私、凛ちゃんを止められないよ! 止めたくないよ!」

 

 私の言葉で凛ちゃんの行動が決まるだなんて、そんなの見たくない。
 凛ちゃんもそんな選択肢を私に選ばせたくなかったんでしょ?
 

「たしかに、私ちょっと早とちりしちゃったかもしれません。でも、間違ってないです。私、今回は間違ってないです」

 

 ちょっと気を抜いたら、また涙が零れてしまいそう。
 だって間違えていたら「行かないで」と言えたんだもん。そしたらもっと素直に、もっと我儘に凛ちゃんに寄り添っていられたんだ。

 

「だから、凛ちゃんがどうしたいのか、それは自分で決めてください」

 

 一度言葉を区切り、乾いた喉を潤すかのように唾液を飲み込みます。
 そういえば、凛ちゃんを探すために走り回っていたんでした。どうりで喉が痛いはず。
 だけど今はそんな痛みなんかどうでもいいです。
 言わなきゃ。
 凛ちゃんが、この言葉を聞きたくないとしても。

 

「あなたがいなくても、私一人でもやれるって、アイドル五十嵐響子の底力を見せてあげるって。凛ちゃんが教えてくれた全ては……私の中にあるんだって、あなたがいなくても立派にアイドルができるって! それをここで、月海で私が証明するから!」

 

 ――凛ちゃんと一緒にライブをしたい。

 

そんな想いを封じ込め、台風に負けないように大きな声で、はっきりとした意志で。

 

「私は凛ちゃんが凛ちゃんらしく進んでる姿を応援したいんです!!

 

 渋谷凛が高垣楓に並んで日本中を熱狂に巻き込むフェス、サマーカニーバル。
 それを見てみたい。この気持ちは嘘じゃないです。
 寂しくないかって? そんなの滅茶苦茶寂しいに決まってるじゃないですか!
 だけど!

 

「私のことは心配いりません。ただ……凛ちゃんは、凛ちゃんが思うように行動してください」

 

 胸が張り裂けそうだった。
 どうして私はこんなことを言ってるんだろう。
 本当は一緒に誕生日を祝いたくてしょうがないのに。
 思いっきり笑って、多分泣いちゃったりして、それでも月海のみなさんのからの笑顔と拍手で、私は忘れられない夏を終わらすのが望みなのに。

 

「私と一緒にライブをやってくれたら嬉しいです。ものすごく嬉しいです。でも、それは私が決めることじゃないんです。凛ちゃんが決めることなんです」

 

 今にも声が震えてしまいそうなのを必死にこらえ、絞り出すかのように言葉を紡ぎます。
 ふと、手が震えてることに気づき、それを握りこぶしでつぶすと、今度は足が震えだしました。そんな震える膝を、今まさに握った拳で叩きます。
 しっかり、しっかりして私!

 

「私の言いたいことは、それだけです。私の……私のためにって思わないで。私をあなたの言い訳にしないで。凛ちゃんが凛ちゃんのためにアイドルをやって、ください」

 

 早くこの場から去りたい。
 こんなことを凛ちゃんに言いたくなかった。
 一緒にいてほしい。一緒にいてほしいよ。
 ずっと一緒にいられないんだよ? 私たちには今だけなんだよ?
 せめて今だけは「私の隣にいて」って、そう言いたかったのに。

 

「そ、それじゃ、私はもう行くね……」

 

 凛ちゃんが振り向かないでよかった。
 自分の肩を抱き締めるように震えを殺し、今にも座り込んでしまいそうな情けない姿の私を見られずにすんだから。
 そうして、私がその場から去ろうとすると、凛ちゃんはゆっくりと立ち上がりました。相変わらず振り向いてはくれませんが。

 

「待って響子、…………あのね」
 

 消え入りそうな凛ちゃんの声。それをかき消すかのように風の音が一層強くなりました。


 びゅうっ!

 

 ああ、もう、うるさいな!
 台風の馬鹿! 凛ちゃんの声を私に届けてよ!

 

「……私はこれまで何にも熱くなれなかった。何も大切なものなんてなかった」

 

 振り返った凛ちゃんは、自虐的な笑みを浮かべていました。
 ああ、知ってます。この顔は、食甚祭前に私がしていた笑いと同じ。
 そう、自分が嫌で嫌でしょうがない時の顔。


「だから、さ。大事なものが……二つもできるなんて、思ってもいなかったんだ」

 

 いつもの精悍な顔つきなんかどこにもない。弱々しいその笑顔は、彼女が私と同じ十五歳だということを、あらためて実感させてきました。

 

「響子……、わかってない。わかってないよ!」

 

 凛ちゃんは一歩後ろに下がります。私との距離を離すように。

 

「私、あなたに嫌われたくない! あなたが私にとってどれだけ大切な人なのかわかってるの!? あなたにそんな事言われたら、私は、私は……!」
「……っ!?」

 

 凛ちゃんの言葉に、私の胸は、心臓はいよいよ壊れてしまいそう。


「ねぇ、なんなの、この状況は!?」

 

 顔をフルフルと横に振りながらさらに後ろに下がる凛ちゃん。
 またです。またさっきと同じ、私の足は前に進めなくなってしまっている。

 

「私はどうすれば響子に嫌われずにいられるの!?」
「そ、そんな……、私が凛ちゃんを嫌いになるわけないじゃないですか!」

 

 子供が癇癪を起こしたように、凛ちゃんはまくし立てます。

 

「ねぇ、何が正解なのかな!? あなたの期待に応えてニューカミングレースの『渋谷凛』は、高垣楓の前に立つことが正解なのかな!?」
「そ、それは」
「それとも、あなたの友達の『渋谷凛』として、ここで最高のライブをすることなのかな!?」

 

 私は間違っていなかった。

 

「ねぇ、響子、どっちが……あなたは嬉しいの? どうすれば、私あなたに嫌われない行動を選べるの? わからない。わからないんだ。もう、私には決められない……」

 

 間違っていなかったからこそ、凛ちゃん追い込んでしまった。
 なんだ。やっぱり間違ってるじゃないですか。笑っちゃいますね。

 

「そんなこと……言われても……」
「ねぇ、教えてよ! 響子、お願いだから、教えてよ!」

 

 私の心の中はもうグチャグチャ。こんな嵐なんかよりももっともっと酷い。それこそ息もできないぐらい。


 だってそうでしょ?

 凛ちゃんだって、わかってないんだもん。


 ……そうだよ、凛ちゃん全然わかってないよ。
 わかってないんだよ!

 

「わ、私にだって、どっちが嬉しいか、どっちが正しいかなんて決められないよ! 正解のない問題を、私みたいにちっぽけな人間に託さないでよ!」

 

 そんな重荷を背負わせたくないって言ったのは凛ちゃんなのに、またそうやってすぐに頼ってきて!

 

「私に頼らないでよ! これは凛ちゃんの夢の話なんだよ!?」
「わ、わかってるよ! わかってるけど!」
「わかってないよ! 凛ちゃんが選んでよ! 凛ちゃんが選ぶんだよ!?」

 

 ああ、どうしてこんなことになっちゃったの?

 

「ニューカミングレースの凛ちゃんとして楓さんの前に立つのか、それとも私と一緒にここで歌うのか! それは凛ちゃん自身が選ぶんだよ!」

 

 なんて残酷な二択なんだろう。
 私にとっても、凛ちゃんにとっても。
 十五歳の女の子に、こんなの選べるわけないよ。
 十五歳の女の子に、こんなの選ばさせないでよ。

 

「だから、わかってるんだよ……」

 

 凛ちゃんは、しぼんでしまったハイビスカスと同じように再び俯いてしまいました。そんな彼女の足元にポタポタと落ちる涙の雫。
 ううっ、先に泣かれちゃったら、私だって泣けないじゃないですか……。

 

「楓さんはトップスターだよ。本来フェスなんかに出てくる人じゃない。ソロライブが基本の人なんだ……」

 

 凛ちゃんの独白にも似た言葉を、私は相槌を打たずに受け止めます。

 

「あの人に憧れて、あの人の横に立ちたくて、あの人を超える為に、私はアイドルになったんだよ?」

 

 昨日、天文台公園で聞いた言葉を再び私に……ううん、今の凛ちゃんの言葉は私に向けられてない。ただ、彼女は自分の心をさらけ出しているだけ。

 

「こんなチャンス、これから先、もうないかもしれないんだ!」
 

 ガタガタと扉の揺れる昇降口で、再び凛ちゃんは叫びます。

 

「だけど響子と一緒に月海で歌う事だって、今回だけなんだよ!?」

 

 本当に私たちは何をやっているんでしょう。
 こんな嵐の夜に、叫んで泣いて。

 

「響子と一緒に誕生日を祝うのだって、私の望みなんだ!」

 

 手を伸ばせばすぐそこに彼女はいるのに。
 いつも私のことを想ってくれたあなたに、少しでも恩返しがしたいのに。

 

「どっちもどっちも大切なんだ。だから……」

 

 その言葉を彼女の口から漏れさせてしまうことを。

 

「どっちを選んだって私はもう歌えない、歌えないよ!」

 

 私は止めらなかったんだ。

 

「ごめん、響子、ごめんねぇ……」

 

 そうして凛ちゃんは。
 私の憧れの歌姫は。
 私の大切な友達は。

 

 零れ落ちる涙と共に、これまで積み上げてきたものを崩してしまったのでした。

 

 

 

 

 ――お願いだから、今晩は一人にしてほしい。

 

 懇願するかのような凛ちゃんの言葉に、私は頷くことしかできませんでした。
 本当に不甲斐ない。でも私の言葉が凛ちゃんの心をかき乱すだけだってわかってしまった以上、私は凛ちゃんの近くに居られない。これ以上彼女を苦しめたくない。

 

 昇降口に凛ちゃんを残し、私は今一人で6-1の教室います。
 本当に私は何をやってるんでしょうか。何をやればいいんでしょうか。
 台風のせいでひんやりとした空気は、ひとりぼっちの教室をいつもより広く感じさせます。
 そんな中、のろのろと着替えの入ったバックを漁り、中からジャージの上下を出しました。雨に濡れたままのTシャツと短パンだったせいで、真夏とはいえども少し身体が冷えちゃったみたい。
 手早くジャージを着込むと、スマホの充電器とタオルを持ちます。歯ブラシは水のみ場においてあるので大丈夫です。これで、凛ちゃんとは鉢合わせしないで済むはず。
 

 凛ちゃんとは、彼女が答えを出すまで会わないようにしよう。

 

 そう思い、さっき凛ちゃんには今日は保健室で寝るって伝えてきました。返事はしてくれなかったけど、私の言葉はちゃんと届いたはず。
 食甚祭の時、私は凛ちゃんに一晩中手を握りしめてもらって不安を消し去ったのに、今私に出来ることは何もありません。
 それが本当に悔しくって、私は唇を噛み締めます。
 

「あ……」

 

 そんな時バックのサイドポケットに目が行きました。
 そこには小さな宝物が、私を待っていたかのように顔を覗かせていたんです。

 

「そっか」

 

 その記憶の詰まった宝箱を、私はそっと取り出すと、両手でそれを握りしめます。

 

「もう四日も撮ってないんだ」

 

 月海に来てから、毎日手元にあったもの。
 PV撮影の素材も出揃ったということで、みんなが帰った日から使われなくなった小さな赤いデジカメ。
 データはすでに中村プロデューサーに納品済みだけど、それはコピーをとって渡しただけ。記念に貰っておきなさいと、皆口さんから手渡されたこのデジカメの中にはまだ。

 

 しゃん。

 

 涼やかな機動音は、耳障りな台風の音の中でも、何故か鮮明に聞こえました。
 

「……いい思い出ですよね」

 

 デジカメの中に残ったこの夏の記憶。
 まだ思い出にしてはいけないことなのに。まだ何も成し遂げていないのに。
 それなのに画面に映った凛ちゃんの笑顔を見たら、この出来事も遥か遠い昔のようで。

 

「……っ」

 

 

 頭を軽く振り、心を落ち着かせませす。
 ダメ、凛ちゃんが答えを出してくれるまで、この想いはまだ保留しておかなきゃ。

 

「私たちの夏が終わってしまったなんて、そんなのまだ……」

 

 ネガティブすぎる思考を振り払い、データのページをどんどん過去にさかのぼっていきます。

 

 ああ、これは最終日の朝。
 かな子ちゃんと一緒に歯磨きしてる凛ちゃんだ。
 この後、工藤さんが二人を急に驚かせたせいで、二人そろって咳込んでいたっけ。
 かな子ちゃんなんか、うがい水を飲んじゃったってえずいてたもんね。

 

 次はみんなで枕投げした時の写真。
 奈緒ちゃんが布団の上で転んで、それを指差して笑う凛ちゃん。
 顔を真っ赤にして奈緒ちゃん怒ってたけど、全然怖くなかったんですよね。

 

 ああ、この時の事はよく覚えてるなぁ。
 高森さんに誕生日祝いに私たちが歌った時のだ。それで感動してくれた高森さんが泣いちゃって、凛ちゃんすっごい慌ててたんだよね。ふふ、二人とも可愛いです。

 

 これは工藤さんと凛ちゃんが一緒に風船釣りをしてる時の写真。
 よく見ると、二人とも滅茶苦茶真剣な顔。本当にライバルなんだなぁ。
 そういや、この時の私はひどい有様だったんですよね。この後、工藤さんに色々とお話を聞かせてもらって、なんとか立ち直ったんだっけ。

 

「私じゃ、工藤さんの変わりはできないよ……」

 

 工藤さん、私どうすればいいんでしょう?
 あなたは私を助けてくれました。
 だから今の凛ちゃんにもあなたが必要なのかな?
 やっぱりこんな時こそ、友達じゃなく仲間が必要なのかな?

 

「なんでここには、私以外誰も居ないんだろう」


 ひとりぼっちの私は呟きます。
 まるで他人事のように、感情も抑揚もない声で。
 それは空っぽの言葉――。

 

「……これじゃ、私だって歌えませんよ」

 

 私はデジカメを教壇の上にそっと置きます。

 

『自分で決めて』

 

 突き放した言い方しかできなかった私を、凛ちゃんは今どう思ってるんでしょうか。

 

 嫌われちゃったかな?
 冷たい子だって思われちゃったかな?

 

 そう思われてもしょうがないよね。
 でもね、あなたがどう思おうとも、せめて私の想いだけは伝わって欲しい。
 ううん、わかって凛ちゃん。

 

「……私、あなたのことが大好きなんだ」

 

 だからこのデジカメを置いていきます。
 大好きなあなたの笑顔を、私がどれだけ撮り続けたのか。
 それだけでも伝わって欲しいから。
 と、ぐわんと視界が歪みます。

 

 ――こんなことでしか私の気持ちは、もう凛ちゃんに伝わらないんでしょうか?

 

 そう思ったら一度は引いてくれていた悲しみが、どんどん心の中で広がっていって。
 みっともなく鼻をすすると、私は教室を後に保健室を目指します。
 あそこなら、凛ちゃんと顔を合わせなく寝る事ができるはず。

 

「あ、夕食……」

 

 唐突に自分が起きてから何も食べていなかったことに気付きました。
 ああ、やっぱり食べなきゃダメですよね。何もやる気なんかおきないですけど、せめて体調管理ぐらいはしっかりしておかなきゃ、皆口さんに怒られ……。

 

「……っ、皆口さん、なんで居ないんですか……。こんな時になんで」

 

 いつも私がピンチの時は、すぐそばにいてくれたのに。
 私が一人でこの状況を切り抜けるなんて無理ですよ。これまでで一番の難題ですよ。これに比べれば、レッスンなんか全然へっちゃらでしたよ。
 だから、私に道を指し示してくださいよ。
 ううん、皆口さんじゃなくてもいいんです。
 ねぇ、誰か、私に進むべき道を教えてよ。
 お願い、お願いだから……。

 

「……お母さん、私どうすればいいの?」

 

 そうして最後に出た言葉に、私の心はとうとう耐えきれなくなってしまいました。
 廊下の壁に倒れるようにもたれかかります。
 窓の外から聞こえる風と雨の音は、どんどん私の心までしみ込んできて。私の心はもう水浸しです。
 だけど、その場で座り込んでしまうのをグっとこらえ、私は壁から背を離します。
 今座ってしまったら、多分私は朝までここに居そうだったから。

 

「食べなきゃね……」

 

 たしか皆口さんのカップラーメンがあったはず。もう今日はそれでいいや。お料理が得意な私としては不本意極まりない献立ですが、何も食べないよりマシですよね?
 家庭科室に行先を変え、私は再び歩きだします。

 

「凛ちゃん……、あなたも何か食べてね」

 

 私が何か作らなきゃ凛ちゃん何も食べなさそう。
 だけど今はそんなケアすらできる余裕がありません。
 今の私にできる事といえば。

 

〈凛ちゃん、せめてご飯だけは食べてね。カップ麺が家庭科室の食器棚の下の引き出しに入ってるから〉
 

 LINKでメッセージを送信します。
 返事はきませんが、既読マークだけは確認できました。
 凛ちゃんは私以上にプロ意識高いんだし、大丈夫。大丈夫……だよね?

 

 今晩はとっておきの得意料理を作ろうと思ってたのに。
 凛ちゃんに歌とダンスを披露したあと、二人で楽しく夕食を取るはずだったのに。
 まさかカップ麺になっちゃうなんて。
 

「ごめんね、凛ちゃん。あなたを支える青いハイビスカスになれなくて……」

 

 嵐の夜は続きます。
 早く、早く朝にならないかな?

 

 あの食甚祭の夜、この時がずっと続けばいいなんて思ってたのに。
 終わらせるのが勿体ないって、この夜が永遠に続けばいいって思ってたのに。

 思っていたのに――。

 

 今は早く朝日が見たい。
 そこにはきっと、私と凛ちゃんの「これから」があるような気がするから。

 

 だから、歩かなきゃ。

 今は、歩き続けなきゃ。

 そう。

 

 この夜を越えていくために。

第十七話 了

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