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第十六話


 

「風、強くなってきたな……」

 教室の窓に張り付きながら、こうして外の様子を伺い始めてから、三十分は経っただろうか。  天気は昨日の予報通り。低くて分厚い灰色の雲が、いつもは白と青のコントラストが美しい月海の空を覆い隠してしまっていた。  びゅうびゅうと音を立てて吹く風は、三十分前と比べてもさらにその威力を増しつつある。雨こそまだ降っていないものの、この調子じゃ一分後に大粒で振り始めたっておかしくはない。

「それにしても、こんな時間まで響子が寝てるなんて……」

 後ろを振り返って、目線を床まで下げると、ピンクの布団は未だこんもりと盛り上がったまま。  すぅすぅと小さな寝息を立ててはいるものの、その眠り方は「まるで泥のよう」と形容するに相応しかった。  今はもう午後一時に近いのに……。  一応朝の八時に、

<ちょっと疲れちゃった。今日は少し遅くまで寝させてもらうね>

 というLINKが送信されていたし、その時間に一度起きたんだとは思うけど。  ただ、私も今日起きたのは、かなり遅い時間だった。  吹っ切ったなんて大見得切ったけど、実際はそんな簡単に割り切れるはずもなく。響子に気まで遣わせて早く床に就かせてもらった挙句、結局眠くなったのは深夜一時を過ぎた頃。  さらにそこから一時間ごとに、目が覚めたりまたうつらうつらとしてみたりを繰り返し。  その間もずっとあれこれ悩み続けてしまい、最終的に寝付いたのが朝の七時で、目が覚めてみたらもう十一時になっていた……というのが、今日の午前中に私がやったこと。  情けない。本当に我ながら、情けない。こういうの、女々しいって言うんだよ。

「お昼ご飯は……あぁ、今日はさっき食べたばっかりだったっけ」

 起きて身繕いをして、それから家庭科室で一人、昨日の残り物を食べたのが一時間ほど前のこと。  残り物と言っても、響子特製月海の野菜スープは、一晩の時を経てさらに美味しくなっていた。  優しい野菜の味がコンソメスープとマッチして、いかにもバランスの取れた食事でありながら、それでいて味の方もバッチリという。  このところ、少し冷たいものばかり食べていた気もするし、「夏でもたまには、こういうのもいいよね」なんて思ったりもして。  適温に温め直したスープと、ご飯に納豆。残り二つが異様に質素なのは……まぁ、察してほしいところではある。

「はぁ……」

 あまり無理はするなと言われた以上、一人でガツガツ自主レッスンもするなと言われたようなものだった。  ここからの追い込みがきついのはわかるけど、今は身体を動かすか歌を歌うかくらいしか、気を紛らわす方法がないっていうのに。  私の視線はさっきからずっと、窓の外と手元のスマートフォンとの往復を、せっせと繰り返すばかりになってしまっている。

「こんなことなら、紗南と奈緒がやってたゲーム、私も始めてればよかったな」

 普通の学生としての青春を全て捧げて得た、ニューカミングレースの渋谷凛という立ち位置。  でも私にとってはそういう世間的な看板よりも、「346の白雪姫高垣楓に最も近い存在」という方がピンと来てしまう。  全てを削ぎ落してきた結果が、これなのかな。今までは気分転換の必要なんてなかった。ずっと、張り詰め続けていればよかったから。  けど、いざこうして気分転換をしなきゃいけない状況になってみると、途端に自分の硬さ……故の脆さまで含めて、全部見えてきてしまうかのようで。

 手持ち無沙汰にLINKのタイムラインを眺める。  346のアイドルは原則公開式のSNSを禁止されているから、このタイムラインが私にとっては、唯一のSNSと言っていいものだった。  とはいえ元から連絡以外でほとんど発言しないし、他の友達みたいに写真をアップしたりするわけでもない。  灰色、だったんだな。私の青春って。  そう考えると、ここに来てからの日々がいかに色鮮やかなものだったか。  なんというか、三ヶ月遅れでやっと"高校生"になった気さえするよ。

「あ、奈緒の写真だ」

 そうだ。この間奈緒とかな子ともLINKのIDを交換したから、近況が表示されるようになったんだった。  あの時の奈緒、うるさかったな……。  「うぉおおーーーっ!! 渋谷凛のLINKアカウントが、私のスマホにぃーーーーっ!!」だって。馬鹿みたい。そりゃあるよ。私だってLINKアカウント。女子高生、なんだし……。  アップされている写真には、笑顔の奈緒とかな子。それに星空組プレイアデスのエース、塩見周子さんが映っていた。  直接話したことはないけど、あの人も既にスーパースターと呼んでいいほどの存在感を放っていると思う。  人間離れしたところがあるっていうか……。私と同じ線の上にいるとは思えない、そんなパフォーマンスをするときがあるっていうか。  そういえば、響子に話を聞いてみれば、周子さんが普段どんな感じなのかもわかるんだろうな。  あまり考えたこともなかったけれど、今度聞いてみようかな。

「あ……」

 画面を下にスクロールしていくと、今度は別の……珍しい人の写真がアップされていた。

「楓さん……」

 少し頬を赤く染めて、他の部署の年長アイドル数人と一緒に、お酒を飲んでいる写真がアップされている。  星空組の川島瑞樹さん、片桐早苗さん。346サターンの佐藤心さん。  あれ? 画面の端にポニーテールとピンクの大きなリボンが見切れてる……。  これって、誰なんだろう? まぁ、いいか。  それにしても、楽しそうだな。楓さん。  普段も優しくて楽しいい人だけど、お酒を飲んでいるときは本当に楽しそうだし、嬉しそうだ。  柄にもなく、そっと「いいね」のボタンを押す。  私の名前が、楓さんのつぶやきの下に表示されているのを見て、再び溜め息。

「私、どうすればいいのかな」

 昨日から何百回も繰り返した、自問自答。  プロデューサーも皆口さんも、私に答えを与えてはくれなかった。  「絶対にサマカニに出てはいけない」とは一言も言ってくれなかった。  あの人たちは、誤魔化さない。  大人の都合で仕方なく月海にいるという言い訳を、許してはくれない。  あえて選択肢を、私に残していったんだ。

 こうして自主性を重んじてくれるということは、わがままを許してくれるということ。  わがままを許してくれるということは、決めたことに対してきっちり自分で責任を持てということ。  彼らがくれるのはきっかけだけ。  成功を掴んだときの手柄は、全部私たちアイドルにくれる。  その代わり、大人だからって全ての責任を持ってくれたりはしない。  私たちに取れる分の責任は、全部私たちにしっかりと負わせるんだ。

「楓さんなら、何て言うだろう」

 プロデューサーって、年いくつだったっけ。あんな見た目だけど、もう三十歳とかだったような。  皆口さんは……やめておこう。中村さんより上なのは確かだけど。  楓さんは、確か六月で二十五歳になったはずだ。  プロデューサーよりも、ちょっとだけ私に近い大人。アイドルという立場が同じ大人。  きっといい相談相手に、なってくれるんだろうな。

「……そうだよ! 直接聞けばいいんだよ!」

 響子がぐっすり寝ているのをいいことに、私はとんでもないことを大声で言ってしまったことに気付いた。  今の、聞かれてないよね……?  ……うん、反応はないみたい。  はぁ。本日二度目の溜め息。かっこ悪いな、私。  それにしても、凄いことに気付いてしまった。  今手元にあるスマホは、何のためにある?  LINKの画面は、何のために開かれている?  もちろんLINKの中では、私と楓さんは「友達」だ。  何かあればすぐに連絡は取れるし、私が何かを相談しようとしていると知れば、彼女は喜んで相談に乗ってくれるだろう。  どうしてこんな簡単なことに、思い至らなかったんだろう。  すぐに楓さんとの個別チャット画面を開いて、文章を打ち込んでいく。

<久しぶり。八月十日のこと、聞いた。フェス、出ることにしたって>

 文章、これでいいかな。変だったり、しないよね?  先輩だし、もっと格式ばった方がいいのかな。  LINKで話したことなんて多分一度もないし、どうしたらいいんだろう。  ……まぁ、いいか。悩んでても仕方がない。とにかく話を聞いてもらおう。  送信ボタンに右手親指が伸びかかったその瞬間――。

 びゅうっ!!

 窓の外で、一際大きな風が吹いた。  うわ、本格的に風がすごいことになってきた。窓から見える正門。その横に生えている木の枝が、太いものから短いものまで、どれも大きく左右に揺れている。

「びっくりした……」

 何だったんだろう、今の。まるで見計らったかのような風だった。  もう一度私は、LINKの画面をじっと眺めた。  そしてすぐにハッとしたかと思うと、次の瞬間愕然としてスマホから目を逸らした。  ……馬鹿だ、私。こうしていることそのものが、既に心が楓さんに依っている証拠じゃないか。

 もしも彼女が「フェスで待ってる」と言ってくれたら?  もしも彼女が「月海で頑張ってね」と言ってくれたら?

 どちらを言われたとしても、私はそっちに傾いてしまうだろう。  "楓さんがそう言ってくれたから"という、この上なく甘えた理由で。   そうか。私今、誰かに甘えたくなってるんだ。アイドル始めてから、こんなこと一度もなかったのにな……。  この二十日間とちょっと、まだまだ新人の響子を引っ張ってきたつもりだったけど、私自身が未だにこんなにも幼いんだと思い知らされたような気さえする。  さっきまで顔の前にあったスマホは、今はもうポケットの中へと仕舞い込まれていた。

 やっぱり私、まだ楓さんの前に立っちゃダメだ。  アイドルとしての力量なら、負ける気はしない。  でも、まだまだ人間として、私には足りないものが多すぎる。  プロデューサーが、言ってたこと。私と楓さんとじゃ、背負ってるものが違うって言葉の意味。  もしかしたら、こういうことだったのかな。  まだまだ何かに甘えたくなる私を、見透かされてたってことなのかな。  こんな遠くにいるのに、また楓さんに負けているってことを思い知らされた気がする。  やっぱりなかなか勝てないな、あの人には。

 その時、ふと校門の前を見下ろすと、色とりどりの小さな傘が五つほど並んでいるのが目に入った。  こんな時に、子供? 一体どこの……?  目を凝らしてみると、彼らが誰だかはすぐにわかった。

「あの子たち、神社にいた……!」

 こんな強風の中、何をしにここに来たって言うんだろう。  今は夏休みの真っ最中なんだから、ただ遊びに来るだけなら他にいくらでも時間はあるはずなのに。

「すぐに家に帰さないと……」

 普段着のこの服なら、別に濡れたって大丈夫。  私は一目散に、昇降口へ向かって階段を駆け下りたのだった。

「こら、みんなそこで何してるの?」

 昇降口を出てすぐに、五人は私と出くわした。  みんなレインコートを着込んで、小さなスコップや大きめのプランターなどを手に持っている。

「りんおねえちゃん!」

 子供のうちの一人、リーダー格の男の子がぎょっとした顔で私を見た。

「こんな天気の時に、外に出ちゃだめだよ。今日は台風だって、みんなも知ってるでしょ。木の枝とか飛んできて、怪我するかもしれない」 「あのね、お花が! お花がたいへんなの!」 「お花?」

 女の子の一人が、今にも泣き出しそうな様子で私に縋りつく。

「学校のうらに、春にうえたお花があるの!」 「でもこんな天気じゃ、吹き飛ばされちゃうかもしれないから……」 「ぼくたち、お花を助けにきたんだ」

 花がこの学校のどこかに咲いているなんて、今初めて知った。  一通りの場所は、ここに来たばかりのときに調べたはずだったけど……。

「それ、どこにあるの?」 「校舎のうらに、れんがで囲まれてる小さなかだんがあるんだ。まだ咲いてるかどうかは、わからないけど……」 「だからスコップとプランターを持ってきたんだね……。わかった。そのお花は、私と響子で何とかするから。お家の人と連絡取れる子、いる?」 「…………」

 まぁ、そうなるよね。誰だって怒られるとわかっててスマホを出したりはしないか。

「私と響子も、一緒に謝ってあげる。事情を話して、みんなのこと怒らないでって言ってあげるから。ね」

 顔を見合わせた子供たち。それから渋々ではあったけど、一人の子が自分のスマートフォンのロックを解除して、私に差し出してくれた。

「ありがとう。ちょっと待ってね、響子も今呼ぶから」

 さすがに寝たままでいてもらうわけにはいかなくなっちゃったな。  私一人よりも、響子がいた方が子供相手だと断然心強い。  先に自分のスマートフォンを操作して、響子に電話をかける。  随分遅いモーニングコールだけど、まぁいいよね。

『……もしもし。おはよう凛ちゃん』

 未だ眠そうなぐったりした声が、耳に入ってくる。  良かった、これで出てくれなかったら一度この子たちから目を離して、教室まで戻らないといけなくなるところだったよ。

「おはよう響子。早速で悪いんだけど、すぐに起きて窓の外見てくれる?」 『んん……。うわぁ、予報通り台風来ちゃってるね。やっぱり昨日のうちにお買い物済ませおいてよかったなぁ』 「うん。そしたら五分で顔洗って歯磨いて、昇降口まで降りてきて」 『五分? そんなの無理だよ……』 「仕方ないな……。ほらみんな、響子お姉ちゃんにおはようって言ってあげて」 『みんな?』

 スマホを子供たちの前に向けて、みんなにも眠気覚ましの声を出してもらう。

「おはよーーー!! きょうこおねーちゃーん!!」 『ひゃあぁっ!?』 「聞こえたよね。今の声」 『子供の声? どうしてこんな天気のときに……?』 「とにかく降りてきて。私一人じゃどうにもならないからさ」 『わ、わかった! すぐに行くからっ!』

 しばらくその場で子供たちと話をしながら待っていると、響子は約束通り五分で昇降口まで降りてきてくれた。

「もうっ。みんなどうしてこんな日に学校に来ちゃったの? 確かに来てもいいよとは言ったけど……」 「みんなプランターとスコップ持ってるでしょ。校舎裏に花壇があって、そこに去年植えた花が咲く時期らしいんだ。それが心配になって、飛び出してきちゃったみたい」 「ごめんなさい……」

 しゅんとする子供たちを、「しょうがないなぁ」と言った手付きでよしよしする響子。  降りて来て早々お説教かと思ったら、すかさずフォローまで。さすがお姉ちゃん慣れ……って言い方はおかしいかもしれないけど。日頃からそういう立場の子は、やっぱり違うね。

「親御さんへの連絡、してもらっていい? 店番やってたときも、私電話応対あんまり得意じゃなくてさ……」 「わかった、いいよ。緊急事態だもんね」

 響子はちょっとだけ苦笑いしながらそう言うと、女の子の持っていたスマホからお母さんへ電話をかけ始めた。

「もしもし? 久野さんでお間違いないでしょうか? 私、346プロ所属の五十嵐響子と言います……はい、そうです! 食甚祭の!」

 響子、すごいな……。これなら明日からこの手のバイトをやっても、即戦力になりそうだ。

「それでですね……。今美咲ちゃんが、私たちの合宿所まで来ちゃってるんです。あぁっ、怒らないであげてくださいね! 去年学校に植えたお花が、心配になっちゃったみたいで……」

 電話口で頭まで下げなくてもいいのに。  こういうところとは本当に律儀というか、響子らしいね。

「はい、はい……。本当ですかっ? じゃあお任せしても……。わかりました。それまでお子さんたちのことは、学校の中で待っていてもらいますから。はい。それではお迎え、よろしくお願いします。失礼します……」

 電話を切ると、響子は安心した面持ちで、

「車で迎えに来てくれるみたい。十分もあれば着くって」 「他の子たちのことは?」 「全員親同士も知り合いでお家の場所もわかるだから、まとめて送ってくれるって言ってた。良かったねみんな。もうこんな危ない時にお外に出ちゃだめだよ?」 「はーい」 「でも、学校くるまでたのしかったよねーっ? 「ねーっ!」

 小さな子供たちにとって、『親に黙ってこっそり家を抜け出して、大事な花のために廃校までやってくる』というイベントは、ちょっとした冒険だったに違いない。  この夏の思い出のうち、一ページくらいはこういうのがあっても、悪くないかもしれないね。

 無事にお母さんの迎えが来て、車に乗せられていった子供たちを見送った後。私たち二人の足元には、いくつかのスコップとプランターが残されていた。

「さて、一仕事残っちゃったね」 「今にも雨、降りだしそうだけど……」 「約束したしね。やるしかないよ。品種によっては、大量に水を浴びると根腐れ起こしちゃうものもあるから、待ってるわけにもいかないしね」 「さすが、花屋の一人娘だね」 「まぁ、このくらいはさすがにね。それにしても響子、今日は起きるの随分遅かったけど、昨日そんなに疲れてたの? もしかしてまた、どこか具合悪いとか?」

 心配そうな私の声色を察したのか、響子はすぐに首をぶんぶんと横に振った。

「ううん! そういうのじゃないよ! ほんとにほんとに、どこも悪くないから!」 「そう。なら、いいけど……」 「後で、ちゃんと話すから。それより今はお花、だよね?」 「うん。校舎裏に煉瓦で囲まれた小さな花壇があるって言ってた。前に見て回ったときは、きっと花が咲いてなかったから、花壇だってわからなかったんだと思う」 「そうかもしれないね。それじゃ、やりますか!」

 腕まくりする響子と一緒に昇降口を出た瞬間、ぽつり、ぽつりという感触と共に、私の頬や腕に水滴が滴った。

「うわ。よりにもよって……」

 憎々しく天を睨んでみても、今起きている現象が巻き戻ってくれたりはしない。

「雨だぁ……。せめてあと二十分、持ってくれればなぁ……」 「愚痴ってもしょうがないよ。さっさと済ませちゃおう」

 校舎裏に向かって、走る私たち。  元々この合宿所は小学校だから、高校生の私たちからすれば、そんなに広くもないわけだけど。  花壇、すぐに見つかるといいけどな……。

「あっ! 凛ちゃん、あそこ!」

 大きな声を共に響子が指差した場所には、確かに小さな煉瓦に囲われた花壇があった。  あぁ。あんな場所が花壇だったのか。これじゃ確かに言われないと気づかないかもしれない。  でも、今は誰だって一目でそこが花壇だとわかる。  なぜなら――。

「ほんとだ、花が咲いてる」

 大きな赤と、青の花。  小さな花壇の中で、それらは確かに力強く咲いていた。

「これ、何てお花だったっけ……?」 「ハイビスカスだよ。南国に咲く、有名な夏の花」 「へぇー。きれい……」

 うっとりと花に見惚れる響子。  降り始めた雨は、ものの五分も経たないうちに大粒となって月海小学校に降り注いだ。  道路のアスファルトの色は灰色から黒へと近くなり、ざぁざぁと降る雨が目の前の校舎や窓ガラスを叩きつける。

 赤い方のハイビスカスは、まるで燃え盛る炎のような激しさを感じさせる。凛として咲き誇る、とはまさにこのことを言うのだろう。  だけど今まさに吹き荒れている風と、降り注いでいる大粒の雨は、この真っ赤なハイビスカスに試練を課しているかのよう。  現に風と雨粒を浴びたことで、少し花全体が傾いでしまっているようだ。  一方青い方のハイビスカスは落ち着いた印象で、淑やかに花びらをつけている。赤に比べて派手さこそ欠けるものの、寄り添うように咲く青が、隣の赤をより一層際立たせている。

「やばい。見惚れてる場合じゃなかった。いよいよ本降りっぽいね」 「これ、どうやってプランターに移せばいいのっ?」 「それなりに根を張る花だから、地面を深めに掘って。下の方の根は多少切れちゃっても構わない。小さな苗木が五本か……。これは結構手こずるかもしれないね」

 そう言いながらも、ザクザクと土を掘って花の根を取り出していく。  時間が経てば経つほど、私たちは泥だらけになる羽目になるだろう。  手際良く植え替えを進める私とは裏腹に、慣れない作業のせいか、響子の方は少し遅れ気味だ。

「二人でやらない方がいいかもしれない。植え替えは私がやるから、響子は終わったやつから、どんどん合宿所の中に運んでくれるかな」 「うんっ!」

 ざくざくと土を掘って、根を剥き出しにしてから、プランターに移し替え、すぐにまた新しく土を入れる。  本当は肥料とかも入れられるといいんだけど、正直今はそれどころじゃない。  雨粒が身体を打つのも、風で泥が撥ねるのも構わず、私はひたすらに目の前のハイビスカスの植え替えに夢中になった。  どうしてかはわからないけれど、今日見たばかりのこの花たちが、無性に愛おしくなったから。  響子も私と、同じ気持ちだったかもしれない。  花壇まで来て、学校まで戻ってを、一生懸命繰り返してくれた。  一鉢の植え替えに約三分。五本全てが終わる頃には十五分。  その間ずっと雨に打たれ風に吹かれ続けていた私たち二人は、屋内に戻る頃にはもうすっかりびしょ濡れになってしまっていた。

「ふぅ……なんとか終わったね……」 「うん。ハイビスカスは一日花って言って、今咲いてる分は今日中に散っちゃうからね。この花を守れただけでも良かったよ」 「じゃあ、もう明日は咲かないの?」 「明日か明後日には、同じ鉢の別の花が咲くと思う」 「へぇ、そういう花なんだ……」

 ずぶ濡れな自分の面倒もそこそこに、響子は今まさに台風から避難したばかりのハイビスカスを優しい表情で見つめている。  プランターは全て、合宿所の昇降口に仲良く並べられてた。  土も少し水気を帯びて、泥みたいになってしまっているけれど、このくらいなら後日別の土を用意してやれば問題ないはずだ。

「響子は好き? ハイビスカス」 「うん。なんだかこのお花見てると、すごく優しい気持ちになってくるんだもん。この赤い方の花、まるで凛ちゃんみたい。強そうで、かっこよくて、とっても綺麗」 「そうかな? 赤い方、響子っぽくない?」 「ううん。赤が凛ちゃんだよ。青は私」 「そう言われてみれば……。青い方、響子みたいだね。とても、落ち着くし、側にいたくなるっていうか」 「側にいたくなるって、そんな……」

 俯いて頬をかっと染める響子。あ、あれ? 私もしかして、また変なこと言っちゃった? いやいや、でも今回は響子が先で……。うわ。さっき響子、「赤い方私みたいで綺麗」って言ってたよね!?  よくよく考えなくても、それ大分恥ずかしいよ!  さらっと乗っちゃった自分が怖くなってきた……!

「と、とにかく! 早くシャワー浴びないと! このままぼんやりしてたら風邪引いちゃう! そしたらライブどころじゃないよ!」 「そ、そうだねっ! 私、バスタオル持ってくるっ!」

 水滴を垂らしながらぱたぱたと階段を登っていく響子の背中を見送り、私はふぅと溜め息をつく。  今の、皆口さんに聞かれてたらどうなってたか。

「私も着替えとバスタオル、取りに行こう……」

 それからプール脇にあるシャワールームに辿り着くまで、私と響子は一言も言葉を交わすことはできなかった。

「ふぅ。シャワー、気持ちいい……」 「身体冷える前にちゃんと浴びられて、良かったね」 「土掘るときに結構汗かいたしね。響子も走って汗かいたんじゃない?」 「雨降って風吹いてるのに、外蒸し暑かったもんね……。気温も相変わらず、三十度くらいあるって」 「風邪もそうだけど、熱中症も気をつけないとね」

 シャワールームに入ってお互いの顔が見えなくなると、さっきの不自然さはどこへやら、またいつも通りに二人で話すことができた。  さっきまで身体を打ち続けた雨粒と違い、適度に暖かいシャワーを浴びているおかげか、自然とリラックスできているのかもしれない。

「あ、髪の先に泥ついちゃってる」 「凛ちゃん、髪長いもんね……。さっきしゃがんだとき?」 「うん。そうかも。普段はああいうときちゃんと縛るんだけどね。今日はそんな余裕なかったから」

 手の平で泥を落としてから、泡立てたシャンプーで丁寧に先端から洗っていく。

「大変そうだよね。髪のお手入れ」 「まぁ、慣れてるから。忙しくなって髪質荒れてきたときだけは、プロデューサーもすぐにスタイリストさん用意してくれるし」 「へぇ、中村さんもそういうことするんだね。ちょっと意外」 「他は全然甘やかしてくれないけどね。楽屋で『何か甘いもの食べたい』って言ったとき、ポケットから飴を一個出して『ほらよ』って言われたときは、さすがに殺意が芽生えたよ」 「あははっ! その方が中村さんらしいかも!」

 シャワールームに響子の笑い声がよく響く。  まぁ、今のはすべらない話かもね。他の人にとっては。

「皆口さんは何かしてくれたりするの?」 「そうだなぁ。あっ、事務所に備え付けの備品は、これが欲しいですって言えば何でも買ってくれるよ!」 「それはすごいね。やっぱりキッチン用品とか、掃除道具とか?」 「私はそういうものをメインで買わせてもらってるけど……。かな子ちゃんはお菓子の材料とかかな。その辺りは人によってバラバラ。うちは全部で十四人もいる大所帯だから、油断するとすぐにモノだらけになっちゃうしね」

 星空組に所属しているのは、響子が所属する七人ユニットのプレイアデスだけじゃない。  星空組は内部でさらに、星組と空組という二つの区分けに分かれている。響子が所属しているプレイアデスは星組。空組には、さらに七人別のアイドル達が所属しているんだけど、その十四人全てが、皆口さんの担当アイドルということになる。  前に響子に聞いた時は、「プレイアデスは、川島さんや早苗さんが引っ張ってくれることが多いですから」と言っていたっけ。

「あんまり値が張るものは自重してるけど……。それでも普段お家で使ってるものよりは、ちょっぴりいいものを買っちゃうかなぁ」 「で、それを使ってご飯作りや掃除がさらに捗ってしまうって感じ?」 「そうなの。私があれこれやればやるほど、他の人がズボラになっていって……。特に掃除は、川島さんくらいしか一緒にやってくれないから困っちゃう」

 一瞬笑おうかと思ったけど、他人事じゃないよねこれ。  響子と一緒に過ごしてると、あまりにも周囲が快適になっていくことで、逆に自分自身が堕落させられてしまうっていう気持ちは、正直わからないでもない。今更だけど、私も気をつけないと……。

「今日、この後どうしようか。花の面倒は、後でもう一度ちゃんと見るとして」 「あっ……。凛ちゃんっ」 「何?」

 一枚の仕切り越しに聞こえる響子の声は、どこか切羽詰まっているようにも、何かを決意したようにも聞こえた。

「お風呂上がって髪の毛乾かしたら……。一緒に体育館に来てほしいの」 「体育館? ダンスでどこかおさらいしたい部分があるとか? 簡単なところなら教室で確認したって――」 「ううん、体育館じゃなきゃだめ。お願いだから、ね?」 「そ、そう。なら、別にいいけど……」

 一体何をするって言うんだろう。  なんとなくだけど、嫌な予感はしたんだ。  響子、時々無茶するっていうか、何考えてるのかわからないときあるっていうか。  私の知らないところで、私のことでものすごく思い詰めたり……とか。

「響子、もしかして私のせいで――」 「凛ちゃんは、悪くないよ」 「っ!」 「悪くない。悪くないんだよ」

 自分にも、私にも言い聞かせるかのように、響子は呟いた。  水の降り注ぐ音だけが、蒸し暑い室内に響いている。  外の雨の音なのか、シャワーの音なのかもわからない。

「とにかく、私ちょっと頑張ったの。それを凛ちゃんに見てもらえるだけで……私は、それでいいから」 「響子っ!」

 隣のシャワーの音が止まり、扉が開いた音がする。  背後からは、バスタオルで濡れた身体を拭く気配。  それでも、私はその場から動けなかった。響子の顔を、見るのが怖かったから。

「どうして……」

 私の呟きは出しっぱなしのシャワーのせいか、はたまた外の雨のせいか、響子の耳に届くことはなかっただろう。

「どうして、私から逃げようとするの?」

 この言葉を、響子の顔を見て言えたなら。  辛いのはあなただけじゃない。私だって、同じように苦しい。  あなたの笑顔を真っ直ぐに見ていたい。あなたの仕草を、声を、言葉を。その全てを真っ直ぐに受け止めたいのに。  その気持ちとは裏腹に、私の心は何か一つに傾くのを恐れるかのように、もう一人の存在へと揺れるんだ。  バランスを取ろうとしているのか。それとも私が浮気性なのか。あるいは、大事なものが二つ出来てしまった苦しさなのか。

「先に体育館、行ってるね。凛ちゃんはゆっくり温まってていいからね」

 それだけ言い残して、響子はシャワールームを後にしてしまった。

「……さっきまで普通に、話せてたのにな」

 壁に手をついて俯きながら、頭からお湯を浴び続ける。  いつの間にか身体は火照り、蒸し暑さのせいか汗まで出てきた。  私は一度お湯を止めて、今度は逆に冷水を出す蛇口を思いっきり捻った。  さっきまでの温かいそれとも、外で降っている雨とも違う。冷たく突き刺すような水を全身に浴びせる。まるで罪を償うかのように。あるいは禊を済ませるかのように。  今の私たちはきっと、友達としてすれ違っているんじゃない。  友達になったからこそ、アイドルとしてすれ違っているんだ。  そんな状況で、今の私にできること。

 それは、響子の想いを見届けることだけ。受け止めることだけ。  ここまで来ても肝心な時は、未だに流れていく状況に対して受け身でしかいられない自分に腹が立つ。  逃げているのは私なのか、それとも響子か。  答えの出ない心の無限回廊の中、私は一人で立ち尽くすことしかできなかった。

 

第十六話 了

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