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第十五話


 

 台風五号は暴風域を伴いながら北上し、明日三十一日(日)の午後には関東に上陸すると思われます。  中心付近の気圧は945ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は四十五メートル/秒で、広い範囲で暴風雨になるおそれがあります。  今後の台風の動きには十分ご注意下さい。

「おはよう、響子……」

 凛ちゃんは、あまり寝起きがいい方じゃありません。  月海に来てから、私と凛ちゃん、どちらが先に目を覚ましたかを勝率にすると、八割がた私の勝利です。  そして起きたての凛ちゃんは、私が言うのもなんですが、普段とは比べ物にならないぐらいポンコツです。  私の言うことを聞いてるようで、聞いてなかったり。  油断していると、すぐさま寝てしまいそうになったり。  繰り返し言いますが、凛ちゃんは寝起きがよくないです。  でも、今日はいつにも増して――

「おはよう、凛ちゃん。朝ごはんできてるよ~」 「あ…………うん」

 ほら、物凄く反応が遅い。  目の下にくままで作っちゃって、綺麗な顔が台無しになっちゃってますよ。  やっぱり、昨晩はほとんど寝てないんだろうなぁ……。

 朝の七時半。いつもよりちょっと遅い朝。  家庭科準備室で朝御飯の調理を終えた私は、凛ちゃんが起きてくるまでの間、スマホで情報サイトをぼーっと眺めていました。  というか、そうでもしてないと眠ってしまいそうで。  ……だって、私も眠いんだもん。  凛ちゃんは気づいてないかもしれないけれど、私もほとんど起きてましたから。

「すぐに食べられるなら、お味噌汁温めるけど。どうする?」

 私は努めて明るくそう訪ねます。  凛ちゃんはそんな私の言葉に、何かを言いたげな表情。寝起きで脳がまだ働いていないのに、心だけが急ぎ足で何かを伝えたがってるような、そんな顔。

「……っ」

 案の定、何かを言い出そうとした凛ちゃんでしたがその言葉を飲み込むと、一言「食べる」とだけ告げ、準備室から出ていきました。  凛ちゃん、どうしてそんなにも隙を見せちゃってるの?  今、ドアを明けながら私をこっそりと見た凛ちゃんの眼。  まるで何かを怖がってるような。  ねぇ、凛ちゃん。  なんで、そんなに弱った姿を私なんかに見せちゃうの?

「あんなの、凛ちゃんらしくない……」

 私は寝不足と疲労で重くなっている腰を上げます  ううっ、やっぱり睡眠不足だ。なんだかフラフラする。  それでも! とコンロの前に立つと、お味噌汁に火をかけます。たったこれだけの事に、ここまで気合を入れないとダメだなんて。私も凛ちゃんの事言えないぐらいのポンコツになってるなぁ。  そんな事を考えながら、温めだした味噌汁を眺めます。  弱火でコトコトッ、コトコトッ………コトコトッ…………。

 …………カラーン!

「はっ!?」

 大きな金属音が静かな部屋の中に響きました。  知らない間にお玉を落としていた私。いやいや、私自身も完全に落ちてましたね。

「危ない危ない……」

 お玉を拾い上げようと、私はしゃがみ込み――

「あー……聞きたい。凛ちゃんに何があったか聞きたい」

 心の声が思わず漏れていました。  だって、凛ちゃん明らかにおかしいもん。昨日、中村プロデューサーとのやりとりを終えた後から、私と眼を会わせてくれないんだもん。

『ごめん、響子。少し外すね』

 あの時のセリフが、私の中でリフレインします。  さっきの凛ちゃんの瞳に浮かんでいた、戸惑いと焦燥と同じ、あの声が。

 昨日、逃げるように職員室から姿を消した凛ちゃん。  最初は、中村プロデューサーとのやりとりで不機嫌になることでもあったのかと、色んな事を考えてみました。  でも、今の私には凛ちゃんがあんなにも動揺する理由が、何一つわからなかったんです。  少しだけ間を空けて、私は凛ちゃんの後を追いました。  凛ちゃんがどこに行ったのかは、すぐにわかりましたしね。  私が何か悩んだら、"あそこ"に絶対に行きます。  それはきっと凛ちゃんも同じだと思ったから。  始まりはいつだってその場所だから。

 でも――。

 すべての始まりである、月海合宿所の屋上。  そこで私を待っていたものは、開くことない扉でした。  鍵を持っているのは凛ちゃんだけ。  だから、凛ちゃんは必ず向こうにいる。  私は内側から、呼びかけようと……ドアを叩こうとして、そこで手が止まったんです。  なぜか、今の凛ちゃんに声をかけてはいけないような気がして。  だから私は、凛ちゃんが扉を開けてくれるまで、黙って待ちました。

 ドアにもたれかかり腰を降ろすと、食甚祭前夜の記憶が蘇りました。  あの時の私は、凛ちゃんの歌声に誘われるように屋上へと足を運んだんです。本当に情緒不安定だったよなぁ、って苦笑いしちゃいますね。  真夏の蒸し熱い廊下、そんな記憶を少しだけ楽しみながら地面を見ました。  当たり前ですが、あの時に私が零した涙の痕は、綺麗さっぱりなくなっていました。  それがなんだかちょっと寂しいような。

 ――あの時に凛ちゃんの歌声。本当に素敵だったなぁ。

 私は、天の川を背にして美しく佇む、ニューカミングレースの『渋谷凛』のファンになりました。  私は、一緒にご飯を作って、一緒に買い物にいって、一緒にお洗濯をする、『凛ちゃん』の友達になりました。  どっちの想いも、いまの私にはとっても大切なものです。  でもその時まで、私はまだ知らなかったんです。  三つ目の『凛』という女の子の事を。

 ドアの前、座り込む私に、またもや聞こえてきた歌。  まるで何かを叩きつけるかのように、激しい凛ちゃんの歌。  それは、ゆうくんたちが穂含月神社で見せてくれた動画の歌。  食甚祭の前、私が彼女との絶対的力量差を知った、屋上で聞いたあの歌。  でも、その時に聞いた凛ちゃんの歌声は、激しい情熱よりも、脆く儚いものを含んでいるように感じられて。

『いつか私を知る事できたなら、必ずその場所に私はいるから』

 全く同じ歌なのに。  私には全く違う歌に聞こえたのでした。

「あ、結局台風来ちゃうみたいね」

 凛ちゃん以上に睡眠不足という顔をした皆口さんが、味噌汁をすすりながらそう言います。いやいや、絶対に八時間睡眠とってますよね?

「大根美味し」 「ああ、それまた桑島さんからの頂き物です」 「そうなんだ。響子、ちゃんとお礼は言ってあるんでしょうね?」 「当たり前じゃないですか。私をなんだと思ってるんです」

 食卓には、私と皆口さん、そして凛ちゃん。  昨日の昼食以来に揃ったメンバーです。

「で、なんですっけ。あ、そうそう。台風。この辺にも来ちゃうみたいですね」

 私がそう言うと、皆口さんは「ライブに被らなくて良かったわ」と、生卵をご飯に落としました。夏場なので卵かけご飯ってちょっと怖い気もしますが、まだ消費期限二日目ですし大丈夫ですよね?

「……」

 そして、私たちの会話を黙ったままの聞き続ける凛ちゃん。  話の切れ目切れ目に、何かを言おうとする仕草をみせ、そのたびに諦めるように再びご飯を口にかき入れています。  そんな凛ちゃんの様子に皆口さんも気づいてるようですが、今のところ不干渉を決め込んでるみたい。  それもこれも、昨日の屋上で閉じこもった凛ちゃんの、あの後の行動のせい。  今の彼女に迂闊に触れていいのか、皆口さんも慎重になってるのかも。

 屋上で凛ちゃんは、ニューカミングレースの持ち歌を一曲叫ぶように唄いました。  でもその後、私たちユニットソングの自主練を唐突に始めたことには驚きました。たしかにライブまでもう十日足らず。残された時間はそんなにありません。激情に身を任せているようで、そういうクレバーさが残っているのが凛ちゃんらしいというか……。  だから私も少しでも練習はしないといけません。いや、むしろ練習しないといけないのは私の方ですし!   後ろ髪を引かれる思いでその場を後にし、私も音楽室でソロ曲の練習を始めたんです。

 そうして数時間後。  夕食の準備のためにと再び屋上を覗きに行くと、凛ちゃんの姿はもうありませんでした。  気が付くとLINKには、

〈夕食は、皆口さんと二人で食べて〉

 とメッセージが。すぐさま返信しましたが、それに対してのメッセージが返ってきたのはさらに三時間後。今度も要件のみのメッセージ。

〈先に寝ていて。私はもう少しレッスンをするから〉

 結局、凛ちゃんがあの後どこで何をやっていたのかわかりません。  教室に戻ってきたのは深夜二時を回っていました。私はいつもと同じようにお布団を敷き、凛ちゃんの望むように先に寝ていました。もちろん寝たふりですけどね。  目を閉じていると、凛ちゃんの気配だけが伝わってきました。何やらガサゴソとした物音。それが終わると、今度は枕元に置いてある私のスマホからメッセージの受信音。すぐさまそれを確認したかったんだけど、寝たふりをバレないためにもグッと堪えました。  それよりさっきの物音はなんだったんだろう?  私は寝返りをうつふりをしつつ、凛ちゃんを薄目を開けて見てみました。  そこには、いつもよりも布団を遠くにしいて、私に背を向けて寝る凛ちゃんの姿がありました。その背中はひどく脆く見えて、まるで小さな子供のように見えました。

 浅い眠りのまま、凛ちゃんの背中を見続けていると、スマホの目覚ましタイマーが鳴りました。  夜は既に明けていたんです。  でも、凛ちゃんのその背中は、まだ夜の影を引きずってるかのように見えて。  そして私は目覚ましのタイマーを止めると、LINKのメッセージに目を通しました。

「さてと……」

 皆口さんは、お茶碗のご飯を一粒残らず平らげると「ご馳走様」と席を立ちました。

「あ、ご飯のおかわりいりませんでした? ちょっと少な目でしたけど」 「おかずが多かったから、これ以上の栄養摂取は危険ね」

 彼女は自分のお腹をポンポンと叩きます。ああ、主にウェスト的にですね……。

「さて、今日は静かな、渋谷凛さん」 「……え?」

 急に名前を呼ばれて、目を丸くする凛ちゃん。  珍しく声が裏返ってたので、よっぽど驚いたのかな……?

「まぁ、あなたにも色々と事情はあるんでしょうけど、もうライブまで残り少ないわ」

 皆口さんは腰に手を当て、ちょっとだけ威圧的なポーズをとり――

「だから、響子の足手まといにならないようにしてね」 「っ!」

 ……え?

 今、皆口さん、滅茶苦茶なことを言いませんでした?  というか、凛ちゃんも、なんでその言葉を受け止めちゃってるんです?

「ここまで響子を引っ張って来てくれた感謝はしてるわ。でも、それとこれとは話が別」

 目の前で皆口さんと凛ちゃんが展開しているドラマに脳が追いつきません。  だって、私は凛ちゃんのお荷物で――

「もう少し時間あればゆっくりとケアしてあげてもいいんだけど……。このままだと、あなた最低の誕生日を迎えることになるわよ」

 そんな私の停滞しきった思考とは裏腹に、どんどんと話は進んでいきます。  ちょっとだけ怒気と呆れの混じった皆口さんと、何かを言い出そうとして結局それができない青ざめた凛ちゃんを、私はただ交互に見ているだけ。

「わ、私は……そんな……」 「今は呑み込みなさい」

 さらに、皆口さんは追い打ちをかけるかのように凛ちゃんの言葉を最後まで言わせませんでした。  本当にわけがわかりません。  どうしよう。  今の私に言える事は――

「あ、あの、大丈夫ですよ! 凛ちゃんはすごい人だから!」

 フォローでもなんでもない、ただ勢いに任せの言葉を紡ぐだけ。   その言葉に、凛ちゃんはようやくその重い口を開いてくれました。

「私、響子に、皆口さんに酷いことを……裏切るような事を考えたんだ……」

 絞り出したようなその声には、いつもの凛ちゃんの面影はまるでなく。

「そう、なんだ……」

 そんな凛ちゃんの告白に、私も引っ張られるように声のトーンが落ちてしまいました。  裏切るような事を考えちゃったんだ。  ……って……ん?  考えた?

「え? 考えただけ?」

 皆口さんも同じ事を思ったのか、拍子抜けしたような顔でそう尋ねます。

「え、考えただけなの? 凛ちゃん?」

 だから私も、皆口さんの後を追う様にそう問いかけます。  凛ちゃんは俯いた顔を上げます。そこにはとっても苦しそうな顔があって。

「私は、プロデューサーから、絶対に仲間を裏切るな、って言われてたのに……」

 それは中村プロデューサーが、凛ちゃんに厳守させた唯一のルールだったのかもしれません。

 そう凛ちゃんの顔がさらに歪む。

 ――それは後悔の顔。

 思っただけで、許されることではない。  考えただけで、罰せられなければならない。  なんてストイックなアイドル。  なんて、不器用な歌姫なのだろう。

 アイドルに全てを捧げた、どこか歪な女の子。  私は、そんな凛ちゃんを、どうしようもなく愛おしく思えてしまって。

「……あのね、凛ちゃん」

 凛ちゃんに謝罪は必要ありません。  だって――

「私、もう謝ってもらってるから」 「え?」

 私は、自分のスマホをそっと凛ちゃんへと差し出す。  そこには、昨日の深夜に一件だけ着信されていたメッセージ。

『今日は本当にごめんなさい』

 素っ気ない、たった一言のメッセージ。  何について謝っているのか、わかりません。  どうして謝っているのかも、わかりません。  でも、その言葉にある凛ちゃんの気持ちはわかります。  それはいつもの彼女の言葉と同じだったから。  だからわかるんです。  私を信用してくれているんだって、それだけは。  だからね?

「私にはこれだけで、十分だよ」

 自分では上手くできてるかわからないけれど、凛ちゃんが安心できるよう、笑顔で励ましました。

「……ありがとう」

 凛ちゃんは小さくそう呟くと、顔を上げます。  その顔は、まだいつもの凛ちゃんではありませんでした。  それでも、前に進もうとする覚悟を持ったその顔に、皆口さんは安心したかのように笑いました。

「とりあえず立ち直れた?」 「……どうだろ」

 凛ちゃんはそう答えながらも、もう『渋谷凛』の顔になっていました。  良かった、これでまた凛ちゃんと歌える。  うん、歌えるはず。

 ……なのに、どうして?  どうして、凛ちゃんのその表情に、不安を感じちゃったんだろう。

 ブルルルルルルッ。

 皆口さんのポケットの中のスマホが鳴りました。   七月三十日、朝八時。  私と凛ちゃんの長い長い三日間は、こうして始まりました。

「それじゃ、行ってくるけど……」

 皆口さんは愛車の前で、私と凛ちゃんの顔を不安そうに眺めます。  むぅ、そこまで心配しなくても大丈夫なのに。

「明後日の夜には帰ってくるんだよね? 大丈夫だよ」

 少しだけ立ち直ったように見える凛ちゃんの答えます。  そうですよ、いくらなんでも私たちだってそこまで子供じゃないんだから。  いやまぁ、十五歳は子供は子供ですけど、お留守番ぐらいはね?

 先ほど皆口さんにかかってきた電話は、346からのものでした。何やらが突然大事な会議が入り、それに出席しなければいけなくなったとの事です。最初は断るつもりでいたそうですが、サマーカーニバル絡みの案件だったみたいで、どうしても資料を提出しないといけなかったみたい。「タイミング悪すぎよ。部長のヤツ、間接的に私たちの邪魔してるんじゃないかしら?」と、皆口さんは言ってました。

 さすがに346の部長さんともあろう人が、そんな漫画みたいな嫌がらせするとは思えませんが。いや本当に。違うってことにしたいです。

「本当に大丈夫かしらねぇ」

「あ、皆口さん、私たちがサボると思ってます?」 「さすがにそれは考えてないわよ。でも、今のあなた達は」 「大丈夫だよ。もう吹っ切れてるから」

 凛ちゃんはそう言うのですが、多分凛ちゃんは何も吹っ切ってません。それは私にもわかるぐらいなんだから、皆口さんが見抜けないわけもなく。

「……わかった。でも無理はしないでよ、二人とも。最後の追い込みはただでさえ精神的にキツくなってくるんだから」 「うん」 「はいっ」

 私たちの返事に申し訳なさそうな顔をしながら、皆口さんは運転席に座ります。  きっと、凛ちゃんの一番大事な時に、月海から離れなきゃいけないことが心残りでしょうがないんだろうなぁ。  皆口さんは普段はいい加減に見えるけれど、そこに居てほしい時に、必ず居てくれる人。きっと本人も、そうありたい自分を演じられないこれからの二日が気がかりなんだと思う。  実際、私も今の凛ちゃんを上手くサポートできるのか、よくわかってないし……。  それでも、私は食甚祭の時に凛ちゃんにおんぶにだっこだったんだから、今回こそはしっかりしなきゃって。

「あ」

 皆口さんはドアを開けっぱなしのままで、何かを気付いたように私を見てきました。

「台風だけど、明日の夕方ぐらいに来るみたい。食材大分なくなってるみたいだし、今日中に買い出し行っときなさいよ」 「ああ、はい。まさか皆口さんにそんな心配されるとは」 「あんた、本当にここに来てから生意気になったわね」

 そういう風に育ててるクセに。って心の中でちょっと悪態ついてみたり。

「出来るだけ早く帰るから。さっきも言ったように無理はしない……程度に無理しなさい」 「どっちですか」 「どっちなの」

 そんな私たちのハモり、軽く手を上げると皆口さんは月海を後にしました。  それを見送った私たちは、しばらく校庭で立ち尽くします。  ……二人きりになっちゃっいました。  ちょっと前まで、あんなに賑やかだったのに。

「えと、凛ちゃん?」 「練習しようか」

 私が最後まで何かを伝えるまでもなく、凛ちゃんは笑顔でそう答えました。  ただ、その笑顔は、無理をして作ってるのが丸わかりです。  それでも、今の私は、そんな凛ちゃんの気遣いを無駄にしたくなくて。

「うん!」

 と、元気よく答えたんです。

「ねぇ、凛ちゃん、ちょっと公園に寄って行かない?」

 夕方十七時。  皆口さんの助言の通り、雨の降り出す前に買い物を済ませにスーパーに行った私たち。  すっかり顔馴染みになった魚屋のおじさんにカジキをまけてもらった私は、ちょっとだけ上機嫌。今日は照り焼きでもやろうかなって。  少しだけ凛ちゃんも、元気を取り戻してきたようで、会話のキャッチボールも朝に比べれば全然順調です。  さっきまでしていた七時間の練習。その中で、少しずつ凛ちゃんの心も通常モードへと戻ってきてるみたい。それでもまだ彼女はギクシャクした所があって。  だから私はスーパーの帰り道、凛ちゃんを月海天文台公園へと誘ったんです。  ここにきた初日、私と凛ちゃんが自分たちで歌う一曲目をはじめて決めた場所。  きっとこの場所なら、もう一度スタートを切るにはもってこいなんじゃないかって。  でも――

「あー……」

 だんだんと生ぬるい風が強くなってきてたので、わかってはいたことだったんですが。  公園から見えた景色は、灰色の雲が覆いだした空。あの夕日は、雲の隙間から少しだけ見えるだけ。海も空も、もうすぐモノトーンの世界へと姿を変えてしまいそう。

「ふふっ、全然赤と青じゃないね」

 あからさまに肩を落とす私に、凛ちゃんが笑いかけてくれました。  あ、これは本当に笑ってくれてる! やった!

「え、えへへ。原点……ってほど、私たちはまだ出会ってからちょっとしか経ってないけど、ここは大切な場所だから」 「……そうだね」

 凛ちゃんは、空と海を見渡せるように柵まで歩いて行くと、買い物袋を地面に置きます。  柵に両手を乗せ、少し前景姿勢になった彼女は無言のまま、灰色の空の中に消えていく太陽の僅かな光を目で追っていました。  私は、そんな凛ちゃんの横顔をマジマジと見つめます。  ああ、まただ。また私の知らない凛ちゃんの顔。

「ありがとう、響子。色々と気を使ってくれて」

 少しだけ強い風がふき、私と凛ちゃんの髪の毛を揺らします。  そんな、モノトーンの世界はまるで時間が止まっているかのようで。

「……ねぇ、響子。聞いてくれるかな?」

 凛ちゃんの言葉に、私は頷きます。  きっとこれから、凛ちゃんはとっても大切な話をしてくれるのだと、わかりました。  ここまで凛ちゃんが言い出せなかったってことは、きっと、ものすごく覚悟のいる話なんだと思います。  ひょっとすると、それは凛ちゃんだけではなく、私にとっても。  でも、凛ちゃんの友達として、今の私の知らない凛ちゃんも、全部ひっくるめて、私は凛ちゃんの友達になりたい。  だから、聞かなきゃいけない。そう思ったんです。

「私が……アイドルを始めようと思った理由」

 少しだけ風が強くなった公園。  凛ちゃんは静かにそう言いました。

「…………うん」

 ちょっとだけ心の整理をして私は頷きます。覚悟みたいなものです。  それを確認すると、凛ちゃんは一度深呼吸をし、そして曇り空に向かい話し始めました。

「元々私、普通の中学生で……って、今も普通の高校生のつもりだけど」 「ふふっ。売れっ子さんは大変だね」

 そんな私のツッコミに、軽く笑ってくれる凛ちゃん。  少しだけ緊張がほぐれてくれたかな?

「ビーチバレーのとき、言ったよね。色んな部活、転々としてたって」

 ああ、言ってました言ってました。

「あの時はびっくりしちゃった。なんでも出来るんだろうなってなんとなく思ってたけど、凛ちゃん本当に絵になるくらいなんでもできちゃうだもん」

 ちょっとだけ私を見ると、苦笑いをする凛ちゃん。  むぅ、そこはもうちょっと照れてくれてもいいのに。

「私、背も少し高めで目立つから。色んな部活から勧誘されて、色んな事やったんだ」

 凛ちゃんは柵にもたれかかるように立つと、なんだか少し寂しそうに語り出しました。

 ……実際は絶対、背の高さだけで勧誘されたわけじゃないですよね。

 こんなに綺麗な女の子のこと、周囲が放っておくはずがないことくらい、私にだってわかりますもん。

「だけど、そのどれにも一生懸命になれなかった。あんまり人に言うのもどうかと思うんだけど、どれもちょっとやったら、すぐにその中で一番になっちゃってね」 「らしいなぁ。そういう凛ちゃん、すぐに想像つくもん」

 そんな自分の才能のせいで、ちょっとだけみんなの輪から外れちゃったのかも。って勝手に思っちゃった私は、あえて茶化すようにそう言いました。

「わ、私だって、何でも出来るわけじゃないんだよ? その、ほら。勉強とか……この間一緒にやったけど、そんなに出来ないし」

 今度は嬉しそう。  出来ない事を喜ぶなんて、私にはちっともわからない悩みです。だけど凛ちゃんにとってはとても大切なことなのかもしれません。

「それはともかく……。それで私、最終的に帰宅部でさ。友達と遊びに行ったり、なんとなくファミレスで時間潰したりして。ただ、そういうことやっててもずっと思ってた。『私の居場所って、本当にここなのかな。私のしたいことって、本当にこれなのかな』なんてね」

 あー。ビンゴでしたか……。  やっぱり凛ちゃんは、色んな事が出来過ぎて人と距離が開いちゃうんだ。だから勉強みたいに、ちょっと出来ないことの方が他人と共有しやすいんだ。うう、やっぱり私にはわからない悩みだよぉ。  そうだよ、工藤さんも言ってたじゃないですか。  凛ちゃんの近くにいると、凛ちゃんの色に染まっちゃうって。  それは、染まるほうだけの悩みじゃないんです。  自分でも知らない間に相手を染めちゃう、凛ちゃんの悩みでもあったんですね。

 柵に背を預けた凛ちゃんは大きく空を見上げ、黙っています。  きっとここからが、凛ちゃんの本当に話したいことなんでしょう。  そして彼女は、語り始めます。

「そんなとき、あの人が――プロデューサーが、現れたんだ」

 私は、静かに彼女の言葉に耳を傾けます。

「毎日毎日、私の通学路で張っててさ。あれやこれやと理由つけて、『アイドルやらねーか』って、そればっかり」

 懐かしむように、でもどこか呆れてるかのようの凛ちゃんの横顔。  それはやっぱり、私の知らなかった凛ちゃんで。

「いい加減うるさいと思って蹴飛ばしても、全然堪えず翌日には同じ場所。あの時はホント、ヤになっちゃったよ」 「あはは、中村さんらしいね」

 でも、たまにこうやって私の友達である凛ちゃんに戻ってくれるから、私は彼女と距離感を感じられずにいます。だから、私もそうやって凛ちゃんが話しやすいように話しやすいように、少しずつ笑顔で答えていきます。  にしても、最初から蹴られていたんだ中村プロデューサー。そこは申し訳ないけど、目に浮かぶようで本当に笑っちゃうかも。

「あの人見た目あんな怪しいのに、誰とでもすぐに打ち解けてさ。私の説得が上手く行かないってわかると、私の友達と次々仲良くなっていって」 「へ、へぇ……」

 笑いごとで済ませようと思ったのに、やっぱり蹴られて当然なのかも……。

「周りみんなからこう言われるんだよ。『凛、あの人346のプロデューサーなんだって! やりなよ凛! 凛ならきっと、すごいことできるって!』って」

 これまた目に浮かびます。  ……っていうか、それってちょっと前までの私なのでは?

「最初はそれも無視してたんだ。アイドルなんて、全然興味なかったし。でも、気づけば先生も友達も、近所の人まで私に同じこと言うようになった」

 そこでまた凛ちゃんは、寂しそうな眼を伏せます。  期待されることは嬉しい事だと私は思います。  でも、凛ちゃんにとってそれは全然違う意味をもっていたのかも。

 ――なんでも出来る凛は、私たちとは違う。

 それを「だから私の近くにいないで」という言葉に聞こえちゃったのかもしれません。

『私の居場所って、本当にここなのかな』

『私のしたいことって、本当にこれなのかな』

 その答えを、凛ちゃんは友達に求めていたのかも。  でも、それに答えてくれた人はいなかったのかも。  だから、彼女は孤高になってしまった……のかも。

「一ヶ月も経った頃だったかな……。外で遊んで夜帰ってきて、家に着いたと思ったら、プロデューサーがうちのリビングでお父さんとお母さんと一緒に、お酒飲みながら晩御飯食べててさ」 「なんだか私、気が遠くなってきちゃったよ……」

 それにしても、そんな繊細な凛ちゃんとは真逆の中村プロデューサーの行動。  ううん、ひょっとして真逆だから上手く言ってるのかな……?

「お父さんもお母さんも、やっぱり他のみんなと同じこと言った。『凛、目の前にチャンスがあるんだからやってみたら?』って。私、そこでキレちゃってさ。いい加減付きまとわれるのも、限界だったから」

 凛ちゃんの顔は、いつもの凛ちゃんの顔から次第に『渋谷凛』としての顔に変わり始めます。  スイッチが入ったその顔は、私がファンになったニューカミングレースの『渋谷凛』の顔。

「そこでやっと『そんなに言うなら三ヶ月以上、私のこと本気にさせてみて。それがアンタに出来たら、私アイドルやるよ』って話になったんだ。それが一昨年の十二月、だったかな」

 今までの自虐的に思い出話をする凛ちゃんはもう居ません。  私の隣、自分の原点を語ってくれる歌姫。

「で、本当に話さなきゃいけないのは、ここからなんだけど……」

 最後の最後で、『凛ちゃん』はまた躊躇う仕草を見せました。

 この先にきっと、まだ私の知らない『凛』がいるんだと思います。

 だったら――。

「いいよ、凛ちゃん。私、どんなことでも受け止めるから」

 いつもの笑顔で、私はそう言いました。凛ちゃんも私を見て、微かな微笑みを返してくれました。

 そして、彼女はその先を離してくれたのです。

「346に行ったら、プロデューサーはすごい綺麗な女の人と一緒に私を待ってたんだ」

 そして彼女は、私を正面から見つめます。  これまでは空を見たり、地面を見たり、できるだけ私と目を合わせないようにしてたけど。  その眼差しは、七夕の夜始めて会ったあの時の凛ちゃんの眼そのままで。

「それって……?」

 私は、その翡翠色の瞳に吸い込まれるように尋ねたんです。

「高垣楓さん」

 彼女の背を押すかのように強く風が吹き、私たちの髪の毛を揺らしました。

「今も私が、アイドル続けてる理由になってくれた人」

 ――そして私は、凛ちゃんの『物語』を知ったんです。

「さてと……」

 時刻は二十時。  さっきまで真っ暗だった体育館は今、私の為だけの練習場になりました。  本当なら全部の蛍光灯をつけてもよかったんだけど、貧乏性の私はステージの一角だけを照らすように明かりを灯しています。この方がちょっと雰囲気あるかなって思って。  台風の近づいてるせいで、外から冷たい風の音が聞こえます。  ふふふっ、いいじゃないですか。燃えてきましたよ。

 夕食後、少し顔色が優れない感じだった凛ちゃんは、私が無理やり寝かせつけました。普段だったら「まだ食器の片づけが終わってない」とか言っちゃう彼女ですが、精神的に参っている凛ちゃんは、素直に言う事を聞いてくれました。

 ――ごめん、響子。

 教室から出ていこうとした私に凛ちゃんが言った言葉。  それを噛み締めます。  私の気持ちを、私の想いを裏切ったって、そう勝手に思い込んでいる凛ちゃん。  そんな事、全然ないのに。  むしろ謝るのは……ううん、感謝するのは私の方。  ここまで私を引っ張ってくれてんだもん。  私にこんなにも楽しい夏をプレゼントしてくれてありがとう。  だから、今度は私が彼女の力になってあげたいんです。  私が彼女の本当にやりたいことを応援してあげなきゃいけないんです。  凛ちゃんに「行かないで」と引き留めた、あの夜の私はもういないんだから。

「さぁ、いきますか」

 スマホを画面をタップすると、連動して体育館のスピーカーから流れ出す。  台風の風音のせいで、上手い具合にうるさくなく、月海の夜に紛れ込むようなメロディー。  これから十二時間。  私の挑戦が始まります。

「……大丈夫。今の私ならできます」

 そう自分に言い聞かせ、私は一人だけの一歩を踏み出しました。  凛ちゃんが灰色の雲の陰に見ていた、明日の夢。  その願いを叶える為に。

 

第十五話 了

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